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No.250  ホウライヒメジ     令和6年910月号
No.249  ニザダイ       令和6年9月号
No.248  シャコ        令和6年 8月号
No.247  天然ヒメマス      令和6年 7月号
No.246  ハマフエフキ     令和6年 6月号
No.245  シロアマダイ     令和6年 5月号
No.244  生ニシン       令和6年 4月号
No.243  生で食べるマエソ  令和6年 3月号
No.242  活き締めホッケ料理    令和6年 2月号
No.241  あの時思っていたことは、今・・・  令和6年 1月号
No.240  これが主役・・・?
令和5年 12月号
No.239  日出ずる国の原点
令和5年 11月号
No.238  国内養殖生サーモン
令和5年 10月号
No.237  カサゴS.K.U.
令和5年 9月号
No.236  全方位鮨鉢盛り
令和5年 8月号
No.235  養殖カワハギ刺身&鮨
令和5年 7月号
No.234  有明海の珍魚
令和5年 6月号
No.233  メヒカリ料理
令和5年 5月号
No.232  シロザメ刺身&湯引き
令和5年 4月号
No.231  貝料理
令和5年 3月号
No.230  キングクラブ類
令和5年 2月号
No.229 ミニマム刺身盛り合わせ
令和5年 1月号
No.228 トクビレ刺身と鮨
令和4年 12 月号
No.227 ベニズワイガニと境港
令和4年 11 月号
No.226 トラフグ刺身
令和4年 10 月号
No.225 サンマ〜、戻って来いよ
令和4年 9 月号
No.224 おもてなし旬鮮刺身盛
令和4年 8 月号
No.223 旬鮮刺身盛り合わせ
令和4年 7 月号
No.222 キジハタ商品化
令和4年 6 月号
No.221 戦争と魚
令和4年 5 月号
No.220 シロギス料理
令和4年 4 月号
No.219 海水入りアサリ
令和4年 3 月号
No.218 キチジ料理      令和4年 2月号
No.217 魚売場が生き残る道  令和4年 1月号
No.216 浮袋からニカワ、発声筋のヒレ肉  令和3年12月号
No.215 伊勢エビを求めたが  令和3年11月号
No.214 正露丸で安心、胡麻サバ  令和3年10月号
No.213 魚屋は真夜中に刺身を引き始める  令和3年 9月号
No.212 カツオ・イカ紅白刺身盛り合わせ  令和3年 8月号
No.211  肝なしウスバハギ刺身&鮨  令和3年 7月号
No.210  でかいタチウオ   令和3年 6月号
No.209 モンゴウイカ商品   令和3年 5月号
No.208 ビンナガ若魚平造り  令和3年 4月号
No.207  テングニシ刺身盛り合わせ   令和3年 3月号
No.206  ホウボウ姿造り   令和3年 2月号
No.205  鮭を二日に一切れ  令和3年 1月号
No.204 ハタハタ刺身&にぎり鮨 令和2年 12月号
No.203 青森の魚
令和2年 11月号
No.202 ツムブリ刺身
令和2年 10月号
No.201 チカメキントキ皮揚げ
令和2年 9月号
No.200 シマアジ刺身&鮨
令和2年 8月号
No.199 グルクン刺身姿造り
令和2年 7月号
No.198 スズキの商品化
令和2年 6月号
No.197 カツオ銀皮造り刺身
令和2年 5月号
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令和2年 4月号
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令和2年 3月号
No.194 ニシン骨切り
令和2年 2月号
No.193 魚屋鮨の魅力
令和2年 1月号
No.192 マダラの鍋用切身
令和元年 12月号
No.191 バンコク魚食事情
令和元年 11月号
No.190 ハガツオ刺身&鮨
令和元年 10月号
No.189 塩茹で花咲ガニ
令和元年 9月号
No.188 ベラにぎり鮨
令和元年 8月号
No.187 赤ウニイカ鮨
令和元年 7月号
No.186 イシガキダイ刺身
令和元年 6月号
No.185 アオダイ刺身
令和元年 5月号
No.184 ヨコワで作る刺身と鮨
平成31年 4月号
No.183 スルメイカを美味しく
平成31年 3月号
No.182 改めて、明太子とは?
平成31年 2月号
No.181 魚売場の活性化
平成31年 1月号
No.180 メスは冬、オスは夏
平成30年 12月号
No.179-2豊かな自然と多民族都市バンクーバー
平成30年 11月号
No.179-1成長企業がシアトルの未来を変える
平成30年 11月号
No.178ヒラスズキ鮨&切身
平成30年 10月号
No.177 メイチダイ刺身&鮨
平成30年 9月号
No.176 店内手作りタコ
平成30年 8月号
No.175 ウナギ鮨盛合わせ
平成30年 7月号
No.174 マアジのバラエティ
平成30年 6月号
No.173 ヒメダイ姿造り刺身
平成30年 5月号
No.172 クロダイ料理
平成30年 4月号
No.171 ヒメシャコガイ姿造り刺身
平成30年 3月号
No.170 ヌマガレイ刺身&にぎり鮨
平成30年 2月号
No.169 魚屋鮨スタイル
平成30年 1月号
No.168 ズワイガニ付加価値商品
平成29年 12月号
No.167 イタリア魚料理の一端
平成29年 11月号
No.166 シログチの平造り刺身にぎり鮨・切身
平成29年 10月号
No.165 アカヤガラにぎり鮨&薄造り刺身
平成29年 9月号
No.164 オオシタビラメにぎり鮨&薄造り刺身
平成29年 8月号
No.163 センネンダイ薄造り&炙り刺身
平成29年 7月号
No.162 スズメダイ料理
平成29年 6月号
No.161 イトヨリ昆布締平造り
平成29年 5月号
No.160 メナダ薄造り刺身
平成29年 4月号
No.159 オニカサゴ刺身
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平成28年 7月号
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平成28年 6月号
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平成28年 4月号
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平成28年 1月号
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No.144 ソロバン玉の串焼き
平成27年12月号
No.144-2 ボラの洗い造り
平成27年12月号
No.143 海を隔てた魚食の違い
平成27年11月号
No.143-2 海を隔てた魚食の違い
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No.142 マイワシづくし(刺身&にぎり鮨)
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令和 6年 11月号  251

魚の話題を聞かない?


全国38位

今年も恒例の11月号「お魚事情」を記事にする時期がやってきた。以前おこなっていた海外編はたぶんもう二度と実施できないと思われ、今年は山形県を訪ねる事にした。

水産物の小売のことに長く関わってきた筆者であるが、これまで水産物関連で山形県という名称を聞く事がほとんどなかった。海に面していない内陸の県であればそれは仕方ないとしても、海に接していながら山形県から魚の情報が耳に入ってこないのは何故だろうと感じていた。そのことは筆者の知識が欠けているだけで、実は面白い魚が存在しているのかもしれないという思いがあり、まったく未知の地域であるが故に興味をそそられる山形県を今年は訪問する事にしたのだった。

発表されている情報としては、山形県の水産物漁獲量は2021年度3,719dで全国38位という位置づけにあり、水産物の生産量においては弱小の部類と言える。海岸線の総延長距離は134,596uで全国38位。そして、海岸線総延長距離/総面積(m/ku)は14.4%でこれも全国38位であり、基本的に海に面した海岸線が少ないために、これがそのまま水産物漁獲高も低いということにつながっているようだ。だが、今時は必ずしも海ではなく陸上でも生産が可能な養殖魚の面で見てみると、2021年度は86dであり、内陸県である長野、岐阜、山梨、滋賀、群馬などよりも下の40位なのである。

数字が示している水産物の生産状況であれば、当然ながら山形県の魚のことが話題になる事はほとんどない事は容易に想像できるのだが、もしかすると何か面白い発見があるかもしれないとの期待を込めて山形へ旅立つ事にした。

ただ、今年もあらかじめ読者の皆さん方にお断りを申し上げておかなければならないことがある。それは、昨年に引き続きFISH FOOD TIMES らしくない内容の記事になってしまい、今年の場合は昨年よりも輪をかけて内容は「らしくない」のである。時間に余裕のある方は以後も読み進めていただきたいが、そうでない方はこれ以降読み進めることを推奨しないと申し上げておきたい。


1日目 

錦鯉

山形県には山形空港と庄内空港の二つがあり、山形空港はJAL、庄内空港はANA、それぞれ別の路線を持っているが、今回筆者はJALで山形空港へ飛ぶ事にした。福岡空港から山形への直行便はJALもANAもなく、羽田経由が主なルートとなっているが、JALの場合は大阪伊丹経由もあるので、今回は伊丹空港経由で山形空港へのルートを執る事にした。

トランジットで久しぶりに降り立った伊丹空港は4時間ほど費やす事になったが、空港建物の内部は随分と新しく様変わりしていて綺麗になっていた。ほぼ20年くらい前の頃、筆者は大阪、兵庫、滋賀、奈良などの地域にスーパー水産部門の指導先があり、特に兵庫県箕面市のスーパーの場合は伊丹空港に近く、頻繁に利用していたけれど、その後関西地域での仕事はなくなって伊丹空港を利用する機会もなくなっていた。

山形空港には14時30分に到着し、それからレンタカーを借りて、この日唯一の訪問地となる最上地方にある金山(かねやま)町大堰(おおぜき)を訪問した。Google Mapsでは1時間10分で到着の予定となっていたが、到着したのは17時であり、約2時間もかかった。これは途中山形県に本部がある地方スーパーヤマザワの見学と買い物のために寄り道したことが、必要以上の時間を要した原因の一つではあるが、それに加えて今年7月の集中豪雨による道路寸断などの影響で、カーナビが何度もルート変更を繰り返し、その度に移動時間が増えていったからだった。

金山町に到着すると、以下の画像のような景観が待ち受けていた。

金山町は昭和58年度の新金山町基本構想の中で「街並み景観づくり100年運動」がプロジェクトとして位置付けられ、100年をかけて自然(風景)と調和した美しい街並みをつくっていくことが企画された。 この企画の実現のために、昭和61年3月に「金山町街並み景観条例」が制定され、街並み形成基準と共に、街並みの基本となる「金山型住宅」の基準を作成し、金山型住宅を建てた場合の助成制度が定められた。  

金山住宅は金山町で育った木材や伝統的な材料を使うことによって、白壁と切妻屋根を持つ在来工法で建てられた住宅であり、年数が経過しても美しく古びる素材を使っているので、気候風土にあった建物だということだ。 

筆者は事前に山形県に関する予備知識を蓄えた中では、金山町のこのような事実を知らずに訪問し、この景観に驚いたのだが、本当の目的は以下の画像にあった。

上の画像は、金山町の大堰公園にある金山川から取水している農業用水路に放されている鯉を、筆者が17時過ぎに撮ったものである。

米沢藩九代目藩主であった上杉鷹山公は、1802年に城内のお堀で鯉を育て始めたとのことだ。これは領民の冬のタンパク源を確保するため、鯉の養殖を勧めるためだったとされ、江戸時代から数えて200年以上の歴史がある。 当時は各家庭の排水口の近くに、セセナという名称の鯉を飼う池のような場所を作らせ、米のとぎ汁や残飯、まゆみ(蚕のさなぎ)を餌にして鯉を育てさせたということだ。

水産資源が乏しい内陸部では鯉は高級品だったため、庶民はもっぱらハレの日に鯉料理を食べるのが一般的だったらしい。鯉の養殖はかつての米沢藩である山形県置賜(おきたま)地域を中心に盛んになり、大正から昭和にかけて県内の各地で発達していったということだ。一般的に鯉料理は泥臭いといわれるが、ここでの養殖方法はきれいな湧き水を用いたり、地下水で畜養することで泥を吐かせるなどの方法が執られ、鯉料理の泥臭さをなくしたとのことである。

ちなみに、下の画像は筆者が飼っていた錦鯉の池だが、この夏に池の水作りに失敗し、この画像で泳いでいる鯉はすべて死んでしまい、7月に新たな鯉10尾を購入して池入れした。しかし、これもすべて8月には死なせてしまい、現在は9月初めに購入し池入れした3尾が、今のところ2ヶ月近く何とか病気もせず元気に泳いでいるので、冬越しの冬眠を超えて大きくなってくれるのではないかと期待している。ただ、筆者は錦鯉を食べるためではなく観賞用として飼っているので誤解なきよう・・・。

食べるための鯉は、水と酸素入りビニール袋に入れられた活鯉を淡水魚専門の業者さんから1尾単位で仕入れる事が出来る。筆者は最近何年も活鯉を扱う機会がないが、かつては2kg前後の活鯉をまな板の上に乗せ、出刃包丁の峰で頭部を叩いて絞め、鯉が動かなくなってから解体作業に入り、その作業は約5分で洗い用の薄造り刺身のカットまで終える事が出来ていた。今はそんなスピードで終了させる自信はないけれど、その要領とコツは身体で覚えているはずである。食べる鯉の事については FISI FOOD TIMES 平成26年8月号No.128で詳しく記しているので参考にしてほしい。

山形ラーメン

旅程1日目は時間的余裕がないのは分かっていたので、立ち寄りポイントはこの金山町大堰だけであり、この場所を出発した後は、やはり通行止めの看板で何度も迂回をさせられながら酒田市のホテルに19時頃到着した。この日はもう美味しい魚を食べさせてくれる店を見つけて歩く余裕はなかったので、近くのラーメン屋で夕食を済ませる事にした。

「ゆくゆく山形」というホームページ記事によると、日本で一番ラーメンが好きなのは山形県と言われ、総務省の家計調査で2022年の年間1世帯当たりの中華そば(外食)の支出金額」という項目で、山形市が17,593円で2年連続の全国1位となったとのことだ。2位は新潟市の15,224円、3位は仙台市の13,074円であり、全国平均が6,600円程度なので、全国平均の約3倍ほどを外食として中華そばにお金をかけている事になる。 また2024年のタウンページには、山形県は24,257軒ラーメン店が登録されているようで、人口10万人当たりのラーメン店軒数が57.92件でやっぱりダントツの第1位で、2位の新潟県(37.73軒)、3位の栃木県(37.13軒)に大きく差をつけているとのことである。  

そんな山形のラーメンはどんな味なのか、先ずは食べてみる事にした。色々な店を探す余裕はないので、ホテルの近くの風林火山というラーメン店に入ってみた。

これがそのラーメンである。トッピングでメンマを追加し、炙り豚飯という丼を追加し、合計1,510円だった。食べてみての感想は「何と麺が太くて硬いこと・・・」という驚きだった。野菜はモヤシだけ、チャーシューは厚めのが1枚だけ、醤油味のスープは少なめで、これはまるでチャンポン麺を平たくして硬くしたように感じ、博多ラーメンが好きな筆者は、二度目はないと思ったのだった。


2日目

酒田魚市場

2日目は朝4時半に起床して、酒田魚市場を5時過ぎに訪問した。この日の魚市場は漁船から魚が水揚げされているという雰囲気ではなく、魚市場内では陸送物や残し物が相対で取り引きがされている様子だった。とりあえず、酒田魚市場とはどんなところなのかは自分の目で確認できたので、早々にホテルへ引き上げ朝食を執ることにした。

酒田魚市場
魚市場の外観 魚市場の内部
海に面した競り場 岸壁に横付けされた漁船

 

羽黒山

ホテルは8時に出発した。前日に空港から金山町、そして酒田市への行程が予想以上の時間を要したことを踏まえ、現在の山形県の道路事情は集中豪雨被害の影響が残っていて、カーナビの計算通りにはいかないことを想定して動かなければならないと思ったのだ。

元々は午前中に立ち寄ることを予定していた場所を一ヶ所割愛し、先ずはこの日1番の目的としていた羽黒山五重塔を最初に目指して動くことにした。そして9時前に羽黒山五重塔に近づくと、案の定カーナビは道路にある五重塔への行き先看板とは逆の方へ導こうとし始めたので、スマホの Google Maps にも頼ることにしてみた。そうするとカーナビでは反映されていない道路事情が Google Maps では表現されることが幾つもあることが分かり、羽黒山五重塔は Google Maps の方を優先することにした。

ところが、これが大きな間違いの元で大失敗をしたのだった。失敗の原因は予備知識の準備不足に尽きるのだが、五重塔の近くに着きましたと案内はでるけれど、その場所は随神門という看板があり、五重塔らしきものは目の前にないのである。 Google Maps に頼っても似たようなことを表示するので困ったことになってしまった。

そこで、自分の判断として羽黒山の山頂近くまで車で行けば五重塔に近づくはずだと解釈し、出羽三山神社に向かった。有料道路の入り口で400円支払って有料道路を使ったのだが、この道路はもっと修復を頻繁にすべきだろうと思われるデコボコ道であり、距離も短く直ぐに終わってしまって、400円の料金はお賽銭のようなものだと自分に言い聞かせることにした。

駐車場の近くには以下の画像の案内板があり、五重塔の位置が示されていた。

この案内板を見てから決めたのは、先ず出羽三山神社にお参りをして、その足で五重塔に行き、引き返して駐車場まで戻るルートを辿ることだった。

出羽三山神社は以下の画像のように立派な茅葺きの屋根で、厚く組まれた茅葺き屋根は圧倒する荘厳さを醸し出していた。

 

この大社殿「三神合祭殿」が実にユニークで面白いのは、下の画像で確認できるように、羽黒山、月山、湯殿山の三神がここに並んで祀られていることである。

 

なぜ、こんな奇妙なことがおこなわれているのかと言えば、羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山にはそれぞれ山頂に神社が存在しているけれど、これら三山の神社をそれぞれ登るのはなかなか大変なので、大社殿「三神合祭殿」にお参りをすれば、三神をすべてお参りしたことになるとされているのだ。

出羽三山は江戸時代初期に松尾芭蕉の「おくのほそ道」に登場して注目されるようになり、伊勢神宮に祀られている「天照大御神」が太陽の神様であるのに対して、月の神様である月読命(つきよみのみこと)が祀られている月山を含む出羽三山にお参りして、太陽と月の両方にお参りすることは、江戸時代以降の信心深い人々にとって、一つの「人生儀礼」とされてきたとのことだ。

この出羽三山神社を過ぎ、案内板に図示されていた階段の方に向かい石段を降り始めた。しかし、随分下っていってもなかなか五重塔らしきものが見当たらないのである。時間は10分が過ぎ、20分を過ぎてもその気配がないのだ。30分を過ぎた頃から、心の中では「これは大変なことになった・・・、もう一度あの石段を歩いて山頂に戻れるだろうか・・・」という不安がよぎってきた。

その石段は、幅が狭くて急勾配のところも多く、参拝者の足で角が取れていて、雨でも降ろうものなら滑って当たり前という形のものが多いのである。

筆者は下りるだけだからまだ楽だが、逆に石段を登ってくる登山者の中には欧米からの観光客らしき人たちも多くいて、日本人を含めた登山者の人たちの表情は相当疲れ切っている様子であり、筆者は「もう、この石段を登って戻ることは、たぶん無理のようだから、別のルートを探すとか、別の手段を考えよう・・・」と思い始めたのである。

そして約1時間後、全身汗だくだくになって、やっと五重塔にたどり着けた。

やっと出会えたか・・・、との思いはあったものの、これまで1時間あまり石段を下ってきて、汗だくで疲れていて、あまり感動らしきものは湧いてこなかったのである。頭の中は、どうやって山頂の車の所へ戻ろうかということで一杯になっていたのだ。

五重塔を離れ、そのまま石段と石畳を10分ほど辿っていくと、何か見覚えのあるところにでた。なんとそこは最初にナビで五重塔だと案内された随神門だった。つまり、その場所で車を降りたら10分で五重塔に行けたのである。事前に羽黒山に関する予備知識を準備しておけば、こんなことはならなかったのだ。

さて、反省をしても元には戻らないので、どうやって車の所に戻るかである。そこで、案内所に行って石段を登る以外の方法で山頂に戻る方法はないかを尋ねてみた。すると、タクシーの方法があるとのことで、タクシー会社の電話番号を教えてくれた。電話して20分ほどでやってきたタクシーを使い、1時間以上前に自分自身が車で走った有料道路を再び料金400円を払い、タクシー代2,510円をプラスして合計3,000円近く出費して山頂に戻ったのである。

事前の予備知識として、羽黒山の石段数は2,446段、往復すれば約3.7kmほどの距離があり、普通は2時間以上を要するということを知っていれば、こういう事態にはならなかったはずだ。下調べを怠るとこんなことになってしまうという典型的な例だと肝に銘じたのだった。

 

致道博物館

羽黒山を11時すぎに出発し、鶴岡市にある致道博物館へ向かった。

この博物館には、このような古い木造の歴史的建物が幾つもあり、画像の建物は旧鶴岡警察署庁舎である。これらの建物の中には、庄内地方の生活文化を物語る資料や重要有形民俗文化財などが展示されている。展示されている様々な資料で、色々なことを知ることが出来るが、そのなかで筆者は特に興味を引かれるものがあった。

それは上画像であり、このズラリと並べて飾られているのは、庄内竿という釣り道具である。この説明は以下のように記してあった。

 

そして、その横では以下のスライドショーが映し出され、当時のことをイメージさせる演出がされていた。

これらの資料から推測できるのは、今や水産物のことで話題になることが少なくなっている山形県にあっても、昔は庄内藩が磯釣りを盛んに奨励していたという事実があり、歴史的に見ると水産物への取り組みは決して消極的ではなかったというのが理解できた。

致道博物館の後は由良海岸に行ったが、由良から湯野浜温泉へ至る海岸沿いを通る県道50号線は以下のような景色が続き、岩の上には釣り人も多くいて、上画像にある江戸時代の光景を彷彿とさせる所もあった。

 

また下の画像は「サケの千本供養塔婆」と表示されていた。これはサケが大漁の時にこの塔婆を立ててサケを供養したのだそうである。

サケの千本供養塔婆のことは、以下のように説明がされていた。

 

由良海岸

致道博物館では、この他にも色々と勉強になったことがあったのだが、そのことは後々にも触れるとして、致道博物館を出発して由良海岸へと向かった。

由良海岸は出羽三山の開祖とされる蜂子皇子(はちこのおうじ)が上陸した地とされている。昔、崇峻5年(592)に蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されたが、蜂子皇子の従兄弟にあたる聖徳太子は宮中での皇子の命を危ぶみ、出羽の聖なる霊山を目指して都を脱出することを勧めた。そして、辿り着いた最終地がこの由良海岸とのことである。

上画像は由良海岸と橋でつながれている白山神社がある白山島である。蜂子皇子はこの由良海岸から聖なる霊山を目指していくことになったが、途中で道を見失うことになり、そこへ大烏が羽黒山へと導いてくれたとのことである。この大烏は三本足の八咫烏(やたがらす)と呼ばれる霊烏であり、その烏が導いた山をその黒い羽から「羽黒山」と名付けられたとのことである。蜂子皇子は羽黒山の次に、月山、湯殿山と次々に開山され、これらを総じて出羽三山と呼ぶ。

羽黒山から由良海岸に行き、そこの看板に分かりやすく説明されていた内容を読むことで、午前中に行って散々汗をかくことになった羽黒山を含む出羽三山神社のことがつながって、全体的に理解できたのだった。

 

旬味 井筒

この日の夜は、事前にネットで探し予約していた酒田市内の郷土料理店「旬味 井筒」に行く予定だったので、18時にはホテルに戻り、19時に到着したのがこの店である。

店構えは落ち着いた和風の造りで、接待などにも利用されているであろう高級感があり、その外観はとても良い感じだった。一人だけの予約ということはあらかじめ伝えていたので、カウンターの端にゆったりとした一人分のスペースを確保してくれていた。

花板の大将に福岡から旅でやってきたことを伝え、以下の料理を注文した。

旬味井筒の料理とお酒
お通し(サワラの味噌漬け焼き、味噌の紫蘇巻き、蕎麦の実お浸し)605円 刺身盛り合わせ(ヒラメ、甘エビ、生マグロ赤身、ホッキ貝、シロツブカイ、ホタテ貝柱、サワラの熟成炙り)2,500円
もって菊なめこ合え 550円 いも煮 880円
弁慶飯 550円

日本酒(初孫魔斬880円、     B野川大吟醸1,045円)

 

この日はこれらの料理の他に、駆けつけの生ビールを中ジョッキで2ハイ飲んですべてだった。

大将は気さくな感じで人当たり良く、女将もそつなく、奥の調理場では何人か働いている様子だった。馴染みの人は上客が多いようであり、なかなか繁盛している店のようだった。カウンター客は筆者だけでなく、何人かいたけれど、大将は筆者に時々話しかけてくれて退屈することはなかった。

その話の中で一つ面白くて記憶に残っていることがある。それは酒田魚市場に最近サワラがよく水揚げされるようになったということだ。サワラはもともと山形で漁獲されることはほとんどないので馴染みがなく、地元の水産関係者はほとんど誰も手を出さないため、非常に安い価格で仕入れることが出来ているということで、店としてサワラはとても重宝しているという話だった。

サワラというのは全国的な位置づけでは岡山県がダントツで有名だが、福岡県の玄界灘でもよく獲れる魚として馴染み深い魚である。そのサワラという西日本の海域に多く棲息している魚が、東日本の東北海域で多く漁獲されるようになったという事実は、海の環境変化の事実として受け止めておきたいと思った。

その仕入れ面でメリットを享受しているというサワラは、この日お通しと刺身盛り合わせの両方に使用されていた。刺身は何日か熟成させてから炙りにしているということだし、お通しの分は味噌漬けにして焼いて出すというように一手間を加えてあるので、本来旨い魚の代表でもあるサワラが、一際味の点で存在感を増しているという感じだった。

筆者の希望として、山形独特の魚があればそれを食べたいと伝えたのだが、大将の言葉によるとそれはなかなか難しい希望だとのことだった。そこで、魚料理ではない「もって菊なめこ合え」と「いも煮」という郷土料理を注文し口にするしかなかった。

筆者は「もって菊」という名称は初めて耳にした。これは独特の香りと味を持った淡い紫色の「もってのほか」という名前の食用菊であり、正式には「延命楽」という品種である。

山形県内では「もってのほか」の愛称が一般的で、この名は「天皇家の御紋を食べるとはもってのほか」とか、「もってのほかおいしい」といったことから転化したらしく、収穫は10月頃からであり、花びらが筒状に丸まった管弁を持ち、しゃきしゃきとした歯ざわりに特徴がある。 

そして、もう一つの郷土料理のいも煮。この料理は里芋、ねぎ、きのこ、ごぼう、牛肉など、山形の旬の具材が入った秋の鍋で、山形の秋を代表する料理とのことである。9月から10月にかけては、山形県内各地の河原などで仲間同士でこのいも鍋を囲む光景があちこちで見ることが出来るらしい。

この日は郷土料理店 旬味井筒で2時間近く過ごし、一日の締めとしては満足感を感じながらホテルに戻ったのだった。


3日目

酒田市と北前船

この日はまず最初に8時頃山居(さんきょ)倉庫に行った。現在この施設の内部は長期間閉鎖中であり、中に入ることは出来ないので外側から見るだけである。

山居倉庫は明治26年に旧藩主酒井家によって建てられた米の保管倉庫であり、米の収容能力は10,800トン(18万俵)もの大きさがある。米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなった場所なのだ。 

上画像は前日の致道博物館に飾られていた資料である。ここには北前船の航路が示されているが、山居倉庫に集められた庄内米などが北前船によって西国に運ばれ、逆に西国の木綿、陶磁器などの産物を酒田に運んでくる流れがあった。北前船は西国から文化も運び込み、荒海の航行には危険が伴うため、船主は神仏に庇護を求め、神社仏閣が数多く建てられ維持されてきたのである。

筆者は、これまで北前船のことは何度も耳にすることはあったけれど、このような形で酒田市の山居倉庫と北前船が結びつくイメージを描くことはなかった。しかし今回の旅で北前船の動き方が酒田市の位置づけと共に具体的な形になったと感じた。

 

魚に縁がない・・・

山居倉庫を後にし、9時前に前日に引き続き再び酒田魚市場に行った。その目的は酒田魚市場に隣接した場所に、一般消費者や観光客を対象とした二つの施設を訪ねるためである。どちらも9時開店というのは分かっていたのでそれに合わせたのである。

しかし入り口には休業日の看板が立てられており、山形の水産物には又もや振られてしまっただけでなく、次に予定していた土門拳記念館も同じく休館日だったのである。なんと付いていないことだと思いながら、酒田市でどうしても訪ねたかった施設の一つ出る本間美術館は、幸いにも休みではなく入場できた。

本間美術館は本間家の別邸を美術館にしたものである。酒田市の本間家は、本間船と呼ばれる北前船を活用して全国各地と商売をおこなって隆盛し、庄内地方随一の大地主となった。そして、本間家は庄内藩に多額の献金をおこなって庄内藩を支えたようであり、金銭面だけでなく外国から武器を輸入して軍事面で後ろ盾になるなど、様々な面で庄内藩を支える陰の立て役者となっていたらしい。また庄内藩だけでなく米沢藩などへも大名貸しもおこない、神社仏閣への寄進、米の備蓄、植林事業など、公益事業へも力を注いでいたとのことだ。

美術館の横には別邸庭園があり、北前船で運んできた佐渡の赤玉石、伊予の青石などが配された見事な和風庭園が存在していた。

 

慈恩寺

この日は米沢市のホテルに宿泊する予定だったので、海側の酒田市から一気に内陸部の寒河江(さがえ)市にある慈恩寺へと向かうことにした。今回初めて高速道路を使ったが、細切れに度々料金所があり、ETCカードを忘れて持ってこなかったことを悔やむことになった。

本間美術館を11時前に出発し、途中で昼食を挟みながらだが1時半頃慈恩寺に到着した。

 

左が慈恩寺三重塔であり、慶長11年(1606)に建立されてから418年が経過している。ちなみに右の三重塔は2021年5月に筆者が撮影した、完成したばかりの正法寺三重塔である。筆者の事務所がある建物の道路を挟んだ、目の前の高台の方にこの三重塔はそびえていて、2024年現在もまだ一般に公開されていない。それは建立したばかりの当時、使用されている桧の材料が、光の加減によっては金色に見えることもあり、実に美しい姿だった。それから3年が経過して、だいぶ落ち着いた色になってきているけれど、慈恩寺三重塔は、3年しか経過していない正法寺三重塔と比較してみると、400年経過した重々しさを強く感じさせられた。

実は、正法寺三重塔の建立作業をした宮大工の人たちは、庄内ナンバーの車に乗ってこられていて、約1年ほど泊まりがけで作業を進められていた。筆者はその親方らしき人と立ち話をしたことがあり、わざわざ山形県から来られていることを知ったのだ。親方の話によると、その三重塔は準備に3年ほどかけて山形県で製材して三重塔の形を作り、現地で一度組み立てるそうである。それから、せっかく組み立てた三重塔を解体し、それらを福岡まで運んできて建立されたことを知ったのである。そんな大変なことをして三重塔は建てられることを知っていたので、今回山形県に昔から存在している三重塔というのが、現在どうなっているのかを是非見てみたいと思って慈恩寺を訪問したのだった。

 

山寺

次は山形県の観光名所として三本の指に数え上げられるくらい有名な山寺に向かった。通称は山寺で、正式には宝珠山立石寺である。

山寺の本堂に到着したが、目的はここではなく奥之院であり、そこには本堂のある場所から石段を1,070段登らなければ辿り着かないのである。この日は羽黒山の時とは違い、事前に下調べしていたので、石段の数の多さを覚悟して奥之院を目指すことにした。

このような石段を登っていくのだが、羽黒山と比べると勾配は比較的緩やかなので随分楽だった。途中には以下の画像のようなホッとする光景もあり、意外にスタスタと登ることが出来て約20分で奥之院に辿り着くことが出来た。

奥之院そのものは何ということは無いのだが、そこから少し離れた下画像の場所が1番の見どころである。

上画像右側の比較的大きな建物は開山堂で、立石寺を開山された慈覚大師の遺骸が金棺に入れられ埋葬されているとのことだ。そして左側の赤い小さな堂は、写経を納める納経堂である。山内で最も古い建物だということであり、そこは山寺を象徴する1番素晴らしい場所だった。

立石寺の奥之院に至るルートは最初に300円の入山料を払わなければならないが、3時20分に入山の手続きをしようとすると、入場受付の人から4時半までには戻ってくださいと言われた。大丈夫かなと思ったけれど、3時40分には奥之院に到着し、ゆっくり写真を撮る余裕も出来ていた。その後、素晴らしい光景を楽しみながら、ゆっくり石段を降りていき、ちょうど上り下り合計1時間ほどで元の場所に戻ることが出来たのである。

この日もやはり石段の上り下りで大汗はかいたけれど、前日のような不安感はなく、楽しみながら1,070の石段の上り下りが出来たことは、自分の体力にまだまだいけると改めて自信を持つことになった。

その後、米沢市のホテルに向かい宿泊したが、この日の夕食は予約をしていなかったので、適当に探してある居酒屋に入った。この居酒屋のことを筆者は知らなかったけれど、関東以北では名の知れたチェーン店らしく、完全個室の部屋に一人で放り込まれ、寂しい夕食を執ることになったのだった。


4日目

ケネディが尊敬した人物

4日目は米沢市から山形市へ向かう行程で幾つかの場所に立ち寄ることを計画していた。米沢市市内では朝8時にホテルから至近距離にある松が岬公園に向かった。

ここは旧米沢城の跡地が公園となっていて、上杉神社や上杉博物館などがあり、公園は時間の入場制限がないので朝一番の訪問先としていた。最初に着いたのは上杉神社である。

上杉神社は天正6年(1578)に越後の春日山城で生涯を閉じた上杉謙信が漆で密閉された甕に入れられ、越後から会津、そして米沢へと移され、御堂が建てられて安置され、上杉神社の御祭神となっている。

上杉神社から離れ、松が岬公園のなかを少し進むと、立派な銅像があった。

   

これは上杉鷹山の銅像である。鷹山は隠居後の名前で藩主時代は治憲だが、一般的に鷹山の名が親しみを込めて使われ、江戸時代に米沢藩政改革をおこなったことで知られている。右の石碑は上杉鷹山公が説いた有名な言葉であり、上杉鷹山公を全国に名を轟かせることになった一文である。

18世紀中頃、上杉家は借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積していた。これは石高が15万石でありながら、会津120万石時代の家臣6千人を召し放つことをせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れないため、他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高く、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていたのである。 加えて農村の疲弊や、洪水による被害が藩財政を直撃し、天明年間には飢饉で多くの餓死者が出た。しかし、当時の上杉治憲(鷹山)は非常食の普及、藩士・農民へ倹約の奨励などに努め、自らも粥を食して倹約を行った。また曾祖父が創設し、後に閉鎖されていた学問所を再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。鷹山と名乗った隠居後も政務に参与して藩の再建に務め、米沢織、米沢鯉、深川和紙など鷹山が起こした産業は現在も連綿と続いているとのことである。

上杉鷹山公に関する逸話で良く知られているのは、1961年にジョン・F・ケネディが第35代アメリカ大統領に就任した際、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」は誰かと聞かれたとき、すぐに鷹山の名前を挙げたということである。  

松が岬公園で、その銅像から更に歩を進めると巨大な建物が建っていた。

これは置賜(おきたま)文化ホールと上杉博物館などが入った施設である。

内部には上杉家や伊達家のことが図示されており、あの独眼竜政宗と呼ばれた仙台藩の初代藩主伊達政宗は実は米沢城で出生したことを知って意外だった。他にも勉強になることは多々あったけれど、この博物館は写真撮影禁止なのであまり面白くなく、そそくさと館外へ出て次の目的地に向かうことにした。

 

瓜割石庭公園

米沢市から高畠町へは約30分で到着した。瓜割石庭公園とはどんなところなのか、下画像の立て看板にある説明を読んでもらうのが一番手っ取り早いと思われるので筆者は説明を手抜きする。

この石壁は約30mほどの高さがあるが、これはツルハシやゲンノウで手彫りしたものというから驚きである。途中で手彫りではなく機械切りを試したところ、石切刃の摩耗スピードが早く、石の売価と刃の入れ替え費用とのバランスがとれず、結局は手彫りに戻ったという歴史があるとのことである。

この光景の面白さから、ライブ会場や写真撮影の場所としても活用されているらしいが、ちょうどこの日はウェディングドレスとタキシードで着飾った男女の撮影がおこなわれており、結婚式の前撮りをしているというのが明らかだった。

切り出した石は様々な場所で使われていたようで、例えば高畠町内には以下のようなものがある。

この建物は高畠鉄道の高畠駅舎であり、高畠石を材料として建てられている。この鉄道は1922年(大正11年)に開通し、途中山形交通高畠線に名前を変え、1974年(昭和49年)に廃線となったとのことだ。旧駅舎だけでなく当時の電気機関車と客車なども保存され展示されている。

鉄道高畠線は10.6kmで駅の数9の単線で、高畑町周辺では製糸業が盛んだったため、それに関わる工業製品を運ぶ目的のために開設され、客車をつなぎ人も運んでいた。

この高畠鉄道のことはまったく何も知らずに出会うことになり驚いたが、筆者は以前鉄道のことで似たような体験をしたことがある。それは、もう10年くらい前になると思うが、南大東島に行った時、シュガートレインと呼ばれる、主にサトウキビを運搬するための鉄道があったのだ。南大東島という小さな島の中に総延長29kmもの軌道があったらしく、その痕跡に出会い驚いたのだった。今回の高畠鉄道についても、予想していなかった出会いであり、これこそ旅の醍醐味だと嬉しくなったのだった。

 

アケビの天ぷら

11時半にここを出発し、山形市へ向かう途中にある上山市の上山郷土資料館に向かった。この施設は山形のことがよく分かる資料が多数展示されているとの情報だったので期待していたのだが、運悪くこの施設も休館日だった。

そこで、直ぐに目的地を変更し斎藤茂吉記念館に行った。

筆者は斎藤茂吉ことについてほとんど知らず、著作も読んだことはない。それなのに、なぜここを訪ねたかと言えば、山形県を知るために山形出身の有名人を飛ばすわけにはいかないだろうと思ったのである。

館内はすべて撮影禁止なので入場者に優しくないパターンだったけれど、ある一つの面白い発見があった。それは斎藤茂吉は養子であり、あの上杉鷹山も養子なのだ。茂吉の旧姓は守谷であるが、東京の開業医斎藤茂一家に養子入りし医者となり、歌人として文化功労者になっている。また、上杉鷹山は日向高鍋藩の藩主秋月種美の次男として生まれ、10歳の時に上杉藩主上杉重定の養子となっている。

その両者に共通しているのは、小さい頃から特に秀でた知能があることを周りから認められ育っていることだ。その極めて優れた才能を生かさずに野に埋もれさせてしまうのはもったいないと考える大人がいて、才能が花開くように、様々な面で援助しながらその道を作ってやって大成するのを見守り、その結果として日本でその名を轟かせる偉人になったということは、二人に共通しているのである。

世の中に嫡子に恵まれないことはよくあることであり、そのことを上杉鷹山や斎藤茂吉のような養子縁組によって解決するということは、養子をもらう側も養子として行く側も双方にとってウィンウィンの関係になる例があるということを知ることが出来たのだった。

斎藤茂吉記念館を出たあと、ほんの近くにある蕎麦屋に立ち寄った。店構えはたいした風格もなく、店内も安っぽかったけれど、味は本物だった。

この盛り蕎麦は本物の竹の器に入れられており、南天の葉も本物であり、どちらもプラスチックのイミテーション品ではなかった。そして蕎麦も美味しかったのだが、面白い手書きの商品札が壁に掛けられていて、売価は250円となっていたのでそれも注文してみた。

この商品は「アケビ」と記されていた。テーブルに運ばれてきた時「エッ、これが250円・・・」と驚いたのだった。アケビは5切れ、それに春菊、茄子、茗荷、ピーマンがドンと盛られているのである。筆者はアケビだけが運ばれてくるものとばかり思っていたら、魚や肉はなく野菜だけではあるが、こんなボリュームを見て間違いではないかと思った。

この料理のアケビは、普通誰もが食べるであろう黒い種を覆った白くて甘い果肉ではなく皮である。アケビは元々縦方向に割れるが、この料理もそれに逆らわず縦に切って、天ぷらにしているのである。筆者はアケビの皮を初めて食べたのだが、ほんのりと苦みがあるものの、気になる程ではなく、アクセントとしてちょうど良いと感じた。

アケビの仕入れは大将が自ら山に行って確保したのか、それとも近所の人に唯で分けてもらったのか、聞いていないので定かでではないが、自分で採集したと思わなければ、こんな安さは実現できないだろうと思ったのだった。

 

天童市美術館

美味しい蕎麦に満腹して、次は天童市美術館に向かった。そこでは、ちょうど「生誕110年 今野忠一展」が開かれていた。

厳選され選ばれたのであろう作品がズラリと並んでいたが、そのほとんどが山岳風景をテーマにしたものであった。そして、今野忠一氏の絵に対する思いは以下のように記されていて、自分自身では思いもよらず時間をかけてじっくりと読み込むことになった。

今野忠一画伯の文章を筆者がコメントするのは、おこがましいことだと思うので控えるが、この文章は実に上品で、心の琴線に触れるものがあり、今回旅した山形県とはどういう所なのかが見事に表現されていると感じた。

筆者は事前の知識として、天童市とは将棋の駒で有名であるというレベルのものしかなく、美術館もそれに関係した展示物があるのだろうと予測していた。しかしその予測は全く外れることになり、山形旅行を締めくくる意味でとても良いものを天童市美術館は提供してくれることになったのだった。

 

山形市郷土館

そしてこの日最後の訪問地山形市に向かった。天童市美術館に予想外の長い時間滞在したので、最後に予定していた山形市郷土館に到着したのは、4時40分を過ぎていて5時の閉館まで20分弱という慌ただしいことになってしまった。

この施設は無料で誰でも拝観できる、今時珍しい仕組みである。係員の方は5時には閉まりますよと言いながら、駆け込みで次々とやってくる観光客を気持ちよく導き入れていて、実に感じの良い施設だった。

山形市郷土館は明治11年に竣工した擬洋風の病院建築物である。最初は県立病院として使用され、その後明治21年に民営移管となり、明治37年から市立病院済生館の本館として使用された。当時は医学校が併設され、オーストリア人医師ローレツが近代医学教育の教鞭をとったことで知られている。 昭和41年に国の重要文化財に指定され、昭和46年に「山形市郷土館」として再出発し、1・2階を一般に公開、郷土史・医学関係資料を展示している。  

建物は円形に囲まれた中庭があって、いかにも洋風のスタイルを持ち込んでいるようだが、その中庭は洋風とは言えず和風の石庭風であった。この辺の少し違和感のある現象を見ると、当時の建築家が明治初期の頃に、外国から洋風建築を導入していく時代変化をどう受け止めていくか、色んな戸惑いもあったのではないかと感じたのだった。

明治11年竣工のこの建物は、洋風建築として明治時代においても古い部類に入ることが以下の図で示されていた。

ちなみに2日目に訪問した致道博物館にあった以下画像の旧西田川郡役所は、この山形市郷土館と同じ1878年(明治11)に建設された擬洋風建築である。上の図では筆者が赤と青の色で囲んで分かりやすいようにしているが、赤い囲みが山形市郷土館、青い囲みは旧西田川郡役所の年代的位置づけである。


旅の総括

4日目は山形市内のホテルに泊まり、翌日の朝に羽田経由で福岡に戻ったので、5日目は単なる移動日であった。

こうして4日間の行程を振り返ってみると、山形県の旅は西洋建築に始まり西洋建築に終わった感もある。その間に歴史ある寺社仏閣をふんだんに見ることが出来たし、山形県における山々の存在がどういうものかを自分なりに理解することが出来た。これまで、ほとんど未知の世界だった山形県を、この旅でそれなりに深く知ることが出来たのは実に有意義だった。

山形県を旅しての感想は、一言で言えば長い歴史を誇る日本の一つの側面に触れることができたというものである。山形県の魚に関しては、隣県の秋田と同じようにハタハタが獲れるらしいし、春のサクラマスも有名らしいが、こういう良く知られている事をFISH FOOD TIMES が二番煎じで扱っても、あまり意味がないだろうと考えた。

それよりも今回の旅で、山形県でも昔はシロサケ(秋サケ)が大量に水揚げされていた事が理解できたし、サケ千本供養塔婆なども面白い発見だった。また、庄内藩で釣りが盛んに奨励されていた痕跡である竹の釣り竿が博物館にズラリと陳列されていたことなどは、山形県の水産物の歴史を知るうえでとても貴重な発見であった。

FISH FOOD TIMES は、魚のことを情報発信する手段ではあるが、何もかも直接的に真っ向勝負するのではなく、こういう旅という方法によって、回り道をした形で魚のことを考えてみるのも良いのではないかと思っている。ただ、いつも回り道ばかりではテーマから外れてしまうので、来月は通常パターンに戻りたいものである。


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                 更新日時 令和 6年 11月 1日