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令和 4年 11月号 227
ベニズワイガニと境港
日本有数の水揚げ高を誇る境港へ
今年も海外お魚事情は休止することにした。その理由は敢えて説明する必要もないだろう。今回その代替訪問地として選んだのは、2021年度の水産物漁獲高が93,829トンで全国第6位に位置する境港魚市場をメイン訪問先とし、さらに鳥取県及び島根県の水産物と魚食環境の調査をおこない、それにプラスして筆者自身の両県における未訪問観光スポットを旅することにした。
親愛なるFISH FOOD TIMES 読者の皆さんは、毎年11月号がどういう流れの内容になるのか、だいたい想像してもらえると思うのだが、今年もいつものようにまるで観光の旅行記のようなものになってしまうことを覚悟してもらったほうがいいだろう。(でも、なかには「11月号だけはいつも楽しみにしている」という少しいただけない読者の方もいらっしゃるのだが・・・、まあそれはそれで歓迎?である)
今回もまた昨年に続き、妻からは旅に同行しないとつれなく振られたので、昨年同様の単独行動となった。今回はそのことを告げられたのが比較的早い段階で一人旅になるということがハッキリしていたことから、これまでにはない境港魚市場への「取材」という方法をおこなって、過去の11月号との違いを打ち出すことにした。
10月17日(月)に福岡空港を7時15分発のJAL便で出発し、出雲空港には到着予定の8時25分より少し遅れて到着したが、この日は境港魚市場の場所確認だけしか明確な予定はなく、朝から晩までほぼ終日どのようにでも自由に行動することができたので、とりあえずは境港市へのルート途上にある松江城と足立美術館を観光することにした。
松江城
最初に立ち寄った松江城は、慶長16年(1611)に4年の歳月を要して築城され、島根県松江市の北部に位置している。城の周りを囲む堀川は、あのシジミで有名な宍道湖とつながっているので薄い塩水の汽水域である。この松江城は天守台を築く時、石垣が崩れて困っていたので身代わりとして美しい娘を人柱にしたとか、その後城は築かれたけれど、やはり崩れる天守台の補強工事のために虚無僧を人柱にしたとか、幾つもの生臭い言い伝えがある。それ以降にも城内での幽霊伝説があって、その祟りを恐れ長く放置された期間もありながら、600年後の今も築城当時の姿を残している国宝である。
筆者が松江城で面白く感じたのは、上画像の「包板(つつみいた)」だった。これは城を支える柱を四方から板で包み、鎹(かすがい)で補強したものであり、補強だけでなく、割れやキズなどを隠して体裁を整える目的もあったようである。
筆者はほんの最近8月末に自社隣地にあった建物が撤去され更地になったことから、老朽化して一部腐敗していた更地に面した板塀を約20年ぶりに上の右端画像のように自分で作り変えたばかりだった。板塀は2m間隔に高さ2mの柱を8本設けたが、その柱は90o角2本の間に45o厚の板を噛ませ、一辺の厚みが225oもある三層構造の組み合わせであり、その一部には鎹(かすがい)を使用して補強していた。これは台風などの強風にも耐えられる柱にするための考案だった。
松江城のこの包板を見て、DIYが趣味の筆者は「なるほど・・・、建物の木材を長い年月にわたり大事に扱うにはこういう方法があるのだ」と勉強させられるものがあった。
フーズマーケットホック
11時20分過ぎには松江城を跡にして、次は足立美術館に向かったが、その途中にフーズマーケットホックという店があったので立ち寄ってみた。
その店で先ず目に付いたのは、左上画像の「沖キス」という地方名称がつけられたニギスだった。未調理の丸魚が118円/100g、調理済みは198円/100gであり、どちらも1尾当たりは50円ほどの格安売価がつけられていた。筆者はニギスに良く似たメヒカリは扱ったことがあるが、ニギスを扱った経験はなく未知の魚であり、そのうちにFISH FOOD TIMES でも取り上げてみたいと思った。
ニギスを見たところ鮮度は良いように見えるが刺身用との表示はなく、アジやイワシのように刺身や鮨に出来れば利益面での効果は高いはずなのにと思った。そして、壁際の平ケースを覗くと魚屋鮨が陳列されていて、その中に「地魚入り握り寿司」というのがあり、鳥取県・島根県山陰沖というシールが貼ってあり、ニギスが入っていないかを期待した。
しかし残念ながらニギスは入ってなくて、この「地魚入り握り寿司」のなかには明らかに解凍トラウトサーモンと思えるものや地物ではない解凍サンマなどが盛りつけられており、中に入れる魚の選択には苦労しているのだろうというのが伺えた。筆者であれば鮮度の良いニギスを仕入れ、たぶん間違いなくこの中に入れるはずである。既に時間は午後12時を過ぎていたので、この商品を購入してイートインコーナーに持ち込んで食べ、それから足立美術館へと先を急いだ。
足立美術館
足立美術館は島根県安来市に所在しているが、市内の中心部とかではなく田畑に囲まれ山に隣接した郊外に位置していた。どうしてこんな田舎に美術館を作ったのだろうとの思いを抱きながら入館したのだが、その疑問の答えは後から、天から降るようにしてやってきたのだった。
上の画像は、米国の日本庭園専門雑誌で19年連続の日本一と評価を受けている足立美術館の日本庭園パノラマ写真である。この庭のことに関しては筆者が偉そうにコメントするのはおこがましいので避けたい。この画像には写っていないけれど、右奥の方には大きな滝が見えていて、その滝とのバランスにも感心していたのだが、後で美術館の外を車で移動していて気づいたのは、何とその滝は美術館の外の山に位置していたのである。
つまり滝は庭園内にあるのではなく足立美術館の塀の外に存在している山にある「借景」だったのだ。足立美術館の日本庭園は「園の外にある山の上から落ちる滝の様子まで借景として計算に入れて作られている」ということに気づかされ、この施設が市内の中心部ではなく、田畑に囲まれ山に隣接した郊外に位置していることの疑問が自分なりの形で解決することになったのだった。
実は筆者も会社事務所がある土地の敷地内に、下画像にあるような借景を意識した庭を1年半前に自分でつくって完成させていた。
1年半前までは上画像にある高さ2mの縦格子板塀は存在していなく、今は後ろ側に隠れている高さ1.2mの木塀が見えていた。コロナ禍の影響で筆者の仕事が暇になり、以前2009年に自分の手で完成させていた長さ15m、高さ5mのウッドデッキの部分的な腐敗が目立つようになっていた問題を解決すべく、一昨年3月からウッドデッキの全面的なリフォームを開始した。そしてその過程のなかで、ウッドデッキに隣接して露天風呂をつくることを思い立ち、自分一人の手で露天風呂とウッドデッキリフォームを昨年3月に約1年の日数をかけ完成させていた。
この2mの縦格子の板塀は最終段階で仕上げたのだが、実はこの向こうに色あせて安っぽいブリキの波板で覆われて見栄えの悪い倉庫があり、これが景観を台無しにしていたので、謂わば新設した縦格子の2mの高さの板塀はボロ隠しの役目を果たしており、妙見神社との間に流れている小川を挟んだ向こう側にある神社の森の木々が新たに庭の借景として役に立つようになったのだ。
境港の夜
さて話を元に戻し、足立美術館を出発した後の行程を記すとしよう。15時近くまで足立美術館で過ごし、そのまま境港へと向かい、16時半頃には場所の確認と下見の目的で境港魚市場に到着した。魚市場内の駐車場の位置を確認してから、そのまま17時には予約していたホテルに入った。FISH FOOD TIMIS をご愛読いただいている皆さんは記憶されていると思うが、昨年の「近畿・南紀編」ではコロナ真っ盛りの頃で、外食をするには最悪の時期のなか、夕食を食べるところがなく筆者は本当に哀れな目に遭っていた。そういう経験をしていたので、今回は同じような悲劇に放り込まれないよう、17時半にはホテルを出て美味しそうな店を探しに出かけた。
ところが・・・、である。こういう言葉がくると、何か変な期待をされている一部読者の方は、もうニヤニヤと想像を膨らませておられるのではないかと思われるが、実はその期待通りのことになってしまったのである。
ホテルから歩いて直ぐの「水木しげるロード」へと向かったが、その商店街にはそれらしき店が全く無いのである。そこで、メインストリートから裏側へ回り、飲み屋さんが集中しているところへも行ったが、やはり何もないのだ。時間はどんどん過ぎていき、日も暮れて暗くなり、店のシャッターも次々と下り始めたので、ある店でシャッター下ろしをしていた女性にどこか良い店ありませんかと尋ねると、私の主人がやっている店がそこにありますと教えてくれたのだ。その言葉にホッとして教えられた店を訪ねたところ、何と予約で満席ですと断られたのだ。これにはガッカリしたが今度はその先に遅くまで営業している魚屋さんがあり、その店の男性に美味しい料理を出す居酒屋などはないかと聞いたところ、あの店が良いのではないかと教えてくれた場所を訪ねると、何とその店には月曜定休の札が掛かっていた・・・。嗚呼・・・
今回もこういう感じになるのかと意気消沈しウロウロしていたところ、赤提灯の焼き鳥屋が見つかった。自分としてはまったく本意ではなかったけれど、もうこの際に贅沢を言っていたらコンビニ行きという最悪の事態に追い込まれてしまうと考え、その店で魚どころ境港の片鱗もない刺身盛り合わせなどを酒の肴にして夕食を済ませたのだ。
境港での夜の期待外れの夕食を終え、達成感のない気持ちを引きずりながら、再び水木しげるロードを歩いてホテルへの帰途についた。そしてそこには夜こそピッタリの以下の画像のような光景が広がったいた。これはこの日の夜の不完全燃焼を抱えた筆者の気持ちを代償するご褒美かなと思うことにして、これらの仕掛けを楽しみながら見て歩いて帰ったのだった。
境港魚市場
2日目の朝は横なぐりの雨だった。このままだと魚市場では雨風を防ぎきれないと判断し、持参したカッパを抱えて魚市場に向かった。5時前に到着し、事前に連絡を取っていた鳥取県境港水産事務所の上原佑太技師を待っていたところ、5時丁度の時間に細面で背の高い格好良い男性が挨拶してこられたのが上原技師だった。
互いに名刺交換をして、事務所で簡単な説明を受け、直ぐに競り場へと案内してくれた。上原技師には朝5時から8時まで3時間もの長い時間、付きっきりで案内していただき感謝している。(上原様、この場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました)
鳥取県営境港水産物地方卸売市場は、岸壁の長さが約2.6q、広さ14.5万平米(約4.4万坪)と広大で、荷受けは3社あり、一般的な2社体制とは違う特徴がある。以下がその概要である。
境港魚市場の水揚げ状況は以下の図表のようになっている。
上の図表に記されている境港魚市場の数字やグラフをどのように読むかだが、この数字で目立つのはやはりベニズワイガニが境港魚市場の最大の特徴だということである。その次には、今や7月の水産業界の風物詩とも言える、まき網船による天然クロマグロ漁が2番目に目立つ特徴ではないかと思う。
最大の特徴であるベニズワイガニの漁が9月に解禁されたばかりであり、5時半からの沿岸魚や陸送魚の競りが開始される前に、上原技師に案内されてベニズワイガニの水揚げ状況を見学させてもらった。
横なぐりの雨のなかでベニズワイガニの水揚げがおこなわれており、30kg以上入るという容器が漁船から降ろされ、コロ付き台車で所定の位置まで運ばれ、これを二人がかりで3段に積み上げていくのだが、見るからに大変な肉体労働だった。これはきっと腰を悪くするに違いないと思える作業だったので、筆者は上原技師に「ロボットスーツを準備した方がよさそうな肉体作業ですね」と話しかけると、確かにそうですねと応えてくれた。
この様子を見て、もう一つ気になったのは、3段に積み上げられた容器の一番下のベニズワイガニには少なくとも100kgほどの重量がのし掛かっているはずであり、カニの姿形は原形を留めるのかと心配になり、そのことを上原技師に質問した。上原技師によると、外部の人たちがこの様子を見学した時に必ず同じ質問を投げかけてくるということだった。その答えは、実はベニズワイガニのほとんどが生食用ではなく加工用なので、姿形が多少崩れても特に問題ないということだった。そして、特別大きなものは上の3番目画像のように丁重な別扱いをされており、これらが生鮮品として姿のまま販売されるはずだとのことだった。
以下の画像は、7時の入札を前にして山と積み上げられたベニズワイガニの様子である。
これらは既にサイズ選別されており、その中身は以下のように表示され、合計650ケースだった。
そして、選別された別扱いの最上品は、大量の山積み品の横にこのように並べられていた。
これを簡単に計算してみると、ベニズワイガニ水揚げ量は 30kg×650ケース=19,500kg (19.5トン)であり、その内特別扱いのベニズワイガニは150kgだから、その割合は1%未満の0.7%ということになる。これらの価格はいったい幾らだったのか知りたかったが、これは全く分からなかった。
ベニズワイガニは競りではなく入札で価格は決まるのだが、7時に開始されたベニズワイガニの入札の様子には驚いてしまった。
上画像が入札発表の様子だが、中央の一段高いところに立っている競り人が小さな声で入札結果をブツブツとつぶやいていた。入札を入れた仲買人は競り人の周りを囲んで、その声を聞きながら、下を向いて一心に耳を傾け、メモしているのである。筆者には何を言っているのか100%理解できなかったのだが、競り人のブツブツ声が終わると仲買人の人たちはほぼ同時一斉に頭を上げ、その場からパッと散っていったので、競り人のあんな小さなブツブツ声がしっかり聞き取れているのだと感心してしまった。こんな驚きの魚の入札光景は他の市場でもあるのだろうか、筆者は他の例を知らない。
上の画像は5時半からおこなわてていた競りの光景だが、これは全国何処でもお馴染みの競り人が大きな声を出して価格と落札者を決める様子であり、清潔に管理された新しい建物の境港魚市場では、近代的な高度衛生管理型の密閉式競り場で活発に様々な魚の競りが実施されていた。
そして今回の旅で印象に残った一つは、この近代的で広大な境港魚市場を管理する境港水産事務所のトップである寺田ルミ所長との面談だった。上原技師から8時半に所長との面談をセットしていると聞いていて、ちょうど8時半に美しい女性が顔を出されたので、てっきりお茶でも持ってきてくれたのかと思った。ところがその方が自ら所長ですと自己紹介され驚いてしまったのだ。こういう言い方は失礼に当たるかもしれないが、魚市場という男の匂いがプンプンする環境で魚市場の管理者である立場の方が、何とも「妙齢の美人女性」ときたら、その意外性に驚くのは筆者だけではあるまい。しかも立場は鳥取県の職員だから、てっきり上級職公務員のジェネラリストと思ったら、その経歴は東京水産大学卒の水産技師という、バリバリの魚スペシャリストときたので、なおさら重ね重ねの驚きになったのだった。
寺田所長とは約1時間にわたり面談をさせてもらった。寺田所長のお話の概要としては、これまで境港魚市場の改修整備計画に218億の巨費を投じてきたが、まだベニズワイガニの水揚げ場所などを閉鎖式上屋にする計画などを残していて、完全には終了していないとのことだった。また鳥取県において水産業は最重要の分野であり、地域の産業を活性化するために境港魚市場への整備投資を積極的におこなってきたが、これからの方向性としては地域の人にも「親しまれる魚市場」にしていきたいとのことだった。その方向性の一環として、9月に完成したばかりの2号上屋には、一般の人たちが自由に見学できる通路を設けたり、以下の画像のような調理実習室、お魚学習室などを充実させ、今年の4月には隣接した場所にある境港水産物直売センターもリニューアルオープンさせたということだった。
境港水産物直売センターは火曜が定休日ということで、この日あいにく筆者はその様子を確認することは出来なかったが、寺田所長がおっしゃる「親しまれる魚市場」にしていきたいという方向性は様々な点から感じることは出来たのだった。
そもそも今回筆者が境港魚市場を訪問したいと考えたのは、近年魚市場という機能と存在感の希薄化が進行しており、このことに地方卸売市場として全国有数の規模を誇る境港魚市場はどのようにして生き残っていこうとしているのかを探ってみたかったことにあった。
以下の表は、9月15日(木)のみなと新聞記事のスキャン資料である。
このグラフにあるように、中央卸売市場、地方卸売市場共に水産物の取り扱いの減少が長く続いていることは数字上明らかである。そのことに危機感を抱き、将来に向けての改善施策の一つが境港魚市場を「親しみのある魚市場」へと変身させていく方向性だと判断した。
境港魚市場から出荷される水産物は境港市を支える基幹産業であり、例えばその一大特徴として挙げられるベニズワイガニは生鮮品で販売されるのは1%未満と推測され、そのほとんどは加工用として利用される。鮮度落ちが極めて早いベニズワイガニは水揚げされて直ぐ、それらを加工する工場へと運び込む仕組みが境港では出来上がっていて、この日水揚げされたベニズワイガニ650ケースは入札結果が発表されると、直ぐに待ち構えていたトラックへと積み込まれ、画像にあるベニズワイガニの山はほぼ20分ほどで姿を消していったのである。
そんな手際よいスピードでベニズワイガニを運び込んでいく工場や関連する産業が境港市には多数存在していて、これらが境港市及び鳥取県の屋台骨を支える産業の一つとなっているのである。そのベニズワイガニから産み出される数多く様々な加工品の中のいくつかは以下のような商品である。
上画像のベニズワイガニ加工品は筆者がお土産として購入したものだが、下の画像は冷凍していない生のズワイガニをむき身にして小鉢に盛りつけたものであり、これは筆者が20日の夜に宿泊した境港市の隣に位置する米子市の皆生温泉にある旅館海潮園の夕食で出された料理の一つだ。
つまり、このようにベニズワイガニは加工食品となるだけでなく、地元の温泉旅館を筆頭とした宿泊サービス、さらには外食産業などにおいても地元の魅力をアピールする有力な手段であり、境港市や皆生温泉に人々を呼び込む大きな力となっているのだ。またベニズワイガニは加工食品や旅館の料理だけではなく、もちろん元の姿のまま生鮮品としても売られている。
この日は9時半過ぎに寺田所長との面談を終えてから境港魚市場を出て、そのまま大きな橋を渡って鳥取県から島根半島に渡り、突端の美保関灯台を観光して再び境港に戻った。その時の時間はほぼ12時になろうとしていたので昼食の場所を探していると、以下の画像の施設が見つかったので入ってみた。
そこは大漁市場なかうらという名称の施設であり、とりあえず腹ごしらえとして食堂に入り、以下画像のカニトロ丼(1,000円)をかき込んだ。
そして、食堂から隣の売場の方へ足を伸ばすと、まさしく観光客を相手にした施設というのが明らかで、先に紹介したベニズワイガニ加工食品などがズラリと並んでいるだけでなく、ベニズワイガニの姿売りもされていたが、その様子が以下の画像である。
ベニズワイガニのこの高い売価には驚いたが、観光客相手となればこんな感じだろうと思った。そして、比較参考として別の画像も紹介しよう。
ほんの近くの別の店ではベニズワイガニがこんなに安く売られていた。大漁市場なかうらで1枚3,000円から4,000円で売られていたのとほぼ同じ大きさのベニズワイガニが、均一価格で1枚1,280円だったのだ。
この店は、福井県に本社があるプラントという企業が運営するPLANT-5境港店だった。まさにアメリカナイズの巨大なスーパーセンターであり、いったいどの位の大きさがあるのか筆者には見当付かなかったが、ネットで調べてみると5,000坪クラスの店らしかった。
ベニズワイガニの売価は観光客相手の売価と地元客相手のディスカウンターではこれほどの価格差が出るのである。魚の価格のことに関しては、寺田所長との面談のなかで、筆者が魚小売専門のコンサルタントであることを承知の上で、筆者に小売段階での売価に対する疑問が投げかけられたのだった。寺田所長の疑問というのは、魚市場での魚価は常に上がったり下がったりしているのだから、小売の現場で魚が安く手に入った時は、それに応じて安く売って欲しいと思うけれど、実際にはなかなかそうなっていないと感じることが多々あるが、それは何故なのかということだった。
筆者は魚売場での売価設定構造や魚小売現場の実態について精一杯の説明をした。具体的には、スーパーの魚部門は荒利益率が平均して30%以下しか確保できていないが、一般的に損益分岐点は30%を超えているのが普通なので、全国のスーパーの魚部門は85%ほどが赤字と見られていること。その原因の一つは機械化が進んだ肉部門に比べて人手が多く掛かることにあるが、それは取り扱いの品種が肉部門の牛豚鷄3種に比べると格段に多く、何十種類もの魚をあつかう煩雑さがあること。しかも、魚売場の売上構成比は食の洋風化によって昔に比べるとどんどん落ちていて、業界平均では8%程度しかなく、売上高は惣菜部門に追い抜かれてしまっていること。スーパーが仕入れる魚は仲卸業者だけでなくバイヤー制度によって価格は操作されており、その中間マージンの大きさによって魚の小売り売価を安く出来ない構造になっていること、などを説明申し上げた。
そういう話をしたところ、寺田所長は反論などはせずに神妙な面持ちで、勉強になりましたと言ってもらったので、この率直な姿勢にも参ってしまった。東京水産大学卒の水産技師という魚のスペシャリストという経歴で、しかも女性でありながら大きな組織のトップに立つという人物はこういう姿勢があるから出来るのだと思うことになった。
その後、旅の行程として井上靖記念館・アジア博物館に向かい、時間をかけながらゆっくりと見学し、2日目の行程を終えたのだった。実は2日目も境港市の同じホテルを予約していたので遠くへは移動しなかったが、その理由は魚市場の水揚げは天候次第でどうなるか分からず、もしかしてベニズワイガニの水揚げなどがなかったら翌日を代替日にして取材を確実なものにしようと考えていたからである。このため2日目の夜も1日目と同じような状況となってしまい、前日とは違う別の店でも魚どころ境港とは思えない哀れな夕食となってしまったので、そのあたりの詳しい記述はパスすることにしたい。
2日間宿泊した「天然温泉夕凪の湯 お宿野乃境港ホテル」では、時間の都合上2日目の朝食だけはとることが出来た。何処もお馴染みのバイキング形式だが、内容的に境港らしいものが準備されていて、なかなか良かった。しかしこのホテルは、夕食も同じようなバイキング方式だったので、ここでは夕食をしないことに決めていたけれど、2日目の夜はここでも良かったのかもしれないと反省したのだった。
投入堂
2日目までに今回のメインとなるテーマは終了し、後は観光をしながら鳥取や島根の魚食環境を調べる行程である。今回は3日目の夜に山間に位置する三朝温泉、4日目は海辺に位置する皆生温泉の旅館を予約して本格的な魚料理を楽しむことにしていた。
三朝温泉を予約したのは、そこからほど近いところある三徳山三佛寺投入堂(なげいれどう)を訪問する目的があったからだった。ところがこの日の朝になって分かったことだが、三徳山三佛寺の投入堂まで行くには二人一組以上でないと入山できないということが判明したのだ。これは天台宗の修行者が鍛錬に行くことを前提とした投入堂までの道があまりにも険しく危険なために、一般の観光客が一人で入山することは禁止されているとのことだった。
筆者の事前の下調べが不足していたために生じた事態であり後悔することになった。しかし、ここで投入堂を見るのを諦めるわけにはいかないというわけで、境港市から140kmほど離れていて、到着まで2時間半ほどかかる八頭郡若桜町にある不動院岩屋堂の投入堂を見に行くことにした。
不動院岩屋堂は1200年ほど前に創建され、ご本尊の不動明王は弘法大師が33歳の時に彫刻した重要文化財である。投入堂の名前の由来は、役行者が法力でお堂を手のひらに乗るほどに小さくし、大きな掛け声と共に断崖絶壁にある岩窟に投入れたと言われているが、これはたぶん、どうやって造ったのかと質問されても答えようがないほど面白い造りなので、後々にそういう風に説明されるようになったのだろうと思う。
この投入堂は近くまで行って写真を撮ることが出来るのだが、実は4日目の朝に三朝温泉の旅館を出た後、三徳山三佛寺投入堂のことが気になって諦めきれず、何とか近くまで行ってどんなところかだけでも知っておきたいと思い、旅館から10分あまりで到着する三徳山三佛寺まで向かったのだ。そして、その判断は正しかった。三徳山三佛寺投入堂を遠くから拝むことが出来たのだ。川の縁の遙拝所から山の上の断崖絶壁にある投入堂を見ることが出来たのである。そして筆者は比較的長期の旅の時にはいつも持ち歩いているものの、毎回ほとんど活躍する場面がなかった、大きくて重たいAF 80-200mm F2.8 HS-APO レンズが、やっと数少ないチャンスを活かして力を発揮したのだ。
世界遺産登録を目指しているという三徳山三佛寺投入堂の凄さを読者の皆さんにも感じていただくために、以下の4枚の画像を見てもらいたいと思う。 左上画像から右へ進み、下画像までを見ればどんな位置づけなのかが理解できると思う。
筆者はこの近くまで行くことは出来なかったものの、こういう写真を撮れたことで、とりあえず欲求不満は解消できたのだった。
ちなみに、この投入堂が三徳山三佛寺の中でどのような位置づけになるか、寺の案内板を写真に撮ったのでこれを見てだいたいのことを理解してもらいたい。
筆者が行けたのは三佛寺までであり、そこから投入堂までは約1時間半の険しい道のりのようである。残念ながらそこまで行くことは出来なかったけれど、三佛寺では以下の画像にある水琴窟の美しい音色を楽しむことが出来た。下画像の筧(かけひ)から出ている水を柄杓に掬い、左下の仏様に水をかけると、少し間を置いてから、実に何とも表現しがたい、涼しげな音が響き渡り、心地よい気分にしてくれるのだ。
筆者もこの水琴窟を造ることはとても無理だとしても、鹿威し(ししおどし)くらいは造ってみたいと思いながら、ズルズルと先延ばしになっている。その代わりに鯉の池に生竹の筧は造って、そこから池に水を落として水音を楽しみ、至極手軽なレベルで茶を濁している。この水琴窟付近では、実に大きな声で元気の良い和尚さんに色々な説明を受け、それにも満足して三徳山三佛寺を後にした。
温泉旅館での部屋食
さて、3日目の夜は温泉旅館なので2日目までのホテルのように夕食先を探す必要はない。宿は三朝温泉の依山楼岩崎であり、皇室を初め島崎藤村、与謝野晶子などの文人墨客にも愛された旅館ということなので、料理に大きな期待をして「ノドグロ塩焼き付き個室食プラン」というのを選んでいた。温泉旅館というのは基本的に二人以上が前提となっているから、一人プランを探すのは簡単ではない。一人が可能だとしても食事は大きな会場で周囲が複数人数で賑わっている中にポツンと一人で食事するのは寂しいので、部屋食が出来るところを探したところ依山楼岩崎に辿り着いたのだった。
さすがに老舗旅館の素晴らしい大きな岩風呂をゆっくりと堪能し、楽しみの夕食が部屋に運び込まれてくるのをワクワクして待っていた。そして運び込まれてきたのが以下の料理である。
仲居さんがこの重箱セットを持ってきて、ほとんど何の説明もなく置いて引き上げていったのだ。何だこのサービスレベルの低さは・・・と思った。お品書きには但し書きが記されていて、あの常套文句「新型コロナウイルスにより、係の接客は最小限にさせていただきます」とのことだった。
吸い物のお椀には自分でお湯を入れなければならないし、ズワイガニには下調理の切り口も入っていないだけでなく、ノドグロ塩焼きは冷めていて参ったのだが、これは鉄板の上に置いて焼き直す仕組みになっているらしかった。お客様にノドグロ塩焼きを焼き直しさせるというのもどうかと思うが、仲居さんがその説明も省いてしまうのではお客は困るのだ。筆者が感じたのは、こういう名門旅館もコロナで売上が激減し、従業員を削減した結果、数少ない人数に負担が掛かり、とにかく短時間でサッサと仕事を片付けようとしているから、こんなことになっているのだろうと思った。
朝食も似たような重箱式のサービスカットの方法だったが、ご飯だけは温かくて美味しかったので、たぶん二人分が入れられていたお櫃(おひつ)のご飯を、お茶碗に山盛りして三杯を全て食べきったのだった。たぶん、後片付けをした仲居さんは「70を過ぎた爺さんが朝からよく喰うわ・・・」と思ったことだろう。
この際に、4日目の夜の皆生温泉海潮園との比較もしておきたいと思う。皆生温泉でも一人で部屋食ができる旅館を探すのに苦労した。ネットでこういう希望が叶う部屋を探してもなかなか見つからないので、最終的に皆生温泉の旅館組合に電話することにした。一晩3万円までは出しても良いと伝えたところ、3万円ならばということで紹介してくれたのが海潮園という旅館だった。
海潮園は大正年間に作られた皆生温泉に現存する最古の岩風呂があり、2階建の収容人数50名と比較的小規模な老舗旅館でである。先代社長が野坂昭如や阿部牧郎などの文人と親しく、自然にそういう関係の人たちに数多く利用されてきたという温泉旅館である。
鳥取・島根旅行の4日目、最終宿泊地の夜であり、宿泊料金も今回の旅では一番高額であり、前日までが期待外れだったので、今夜こそはと期するものがあった。そして、その願いはやっと叶ったのである。以下の画像が海潮園の料理である。
海潮園の料理 | |
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ベニズワイガニ | ノドグロ煮付け |
鰻とベニズワイガニの温寿司 | トラフグ唐揚げ |
鮟肝 | 鱧のしゃぶしゃぶ |
山菜小鉢 | サザエ佃煮 |
松茸入り土瓶蒸し | |
お造り(ボタンエビ、アカガイ、ホタテ貝柱、シロイカ、カンパチ、サワラ炙り、マダイ) |
この他にも最後のご飯はマグロの漬けが入った茶漬けがあったが失念して写真を撮るのを忘れてしまった。また、事前にメールで海潮園に連絡して、肉料理はいらないので出来るだけ魚料理にしてほしいとの要望を出していたことに料理長は応えてくれていて、お品書きに記されていた鳥取和牛の料理はなく、その代わりにお品書きに記されていない大きな松茸が入った土瓶蒸しがあったのだ。これらの料理の一品一品はどれも洗練された味だったので美味しく完食し、仲居さんには料理の満足感をしっかり料理長に伝えてくれるようにお願いしたのだった。
しかも海潮園の場合は、筆者の年齢に近いかもしれない、いかにもベテランの仲居さんが料理を程よい間隔で順番に運んでくれるから、温かい料理は温かい状態で食べることが出来たし、仲居さんは実にベテランらしく時々頃合いを見計らって、部屋に顔を出して筆者に話しかけたりして、一人旅の侘しさを紛らわしてくれるし、本当に色々な面で満足だった。
以下の画像は翌朝の朝食である。もちろん大部屋ではなく自室での部屋食であり、味噌汁は温かく、湯豆腐も熱々であり、この日も出された料理だけでなく、お櫃のご飯を含めて全て平らげてしまった。まあ、70過ぎの爺さんが朝から2日続けて本当によく喰うわ、と自分のことながら感心したのだった。
自然と共生する日本の原風景
5日目の朝は「終わり良ければすべて良し」の言葉を噛みしめながら、旅の最後の行程へと向かった。この日は皆生温泉から約2時間かかる110kmほどの距離にある石見銀山に行くことにしていた。前日4日目は三徳山三佛寺投入堂を経て大山へ行き、それから島根県奥出雲町にある「たたらと刀剣館」を訪ねていたから、今度は石見銀山と決めていたのである。
たたら製鉄に興味があったのは、筆者自身が包丁を使うことで、魚をおろし、魚料理をおこない、刺身や鮨をつくるので、包丁につかう鉄の材料にも興味があり、鋼のことを知ることで、その頂点である日本刀に使う玉鋼にも関心があったからである。
出雲国たたら風土記によると、たたら製鉄について以下のように記されている。
日本古来からの鉄づくりたたら製鉄は、優れた鉄の生産だけでなく、原料砂鉄の採取跡地を広大な稲田に再生し、燃料の木炭山林を永続的に循環利用するという、人と自然とが共生する持続可能な産業として日本社会を支え、鉄の流通は全国各地の文物をもたらし、地域文化をも育んできた。 なかでも奥出雲地域は、たたら製鉄の原料となる良質な砂鉄を含む花崗岩(真砂土)が広く分布し、燃料の木炭を得るための森林も広大だったため、これらの資源を求めて製鉄技術者が多数集まってきた。 山を切り崩し土砂を水路に流し砂鉄を採取する「鉄穴流し」という方法が行われた際、山を切り崩すほど大量の砂鉄が必要だったが、その跡地はそのまま放置されることなく、鉄穴流しで使用した溜め池や水路を利用して計画的に農地に再生し棚田を生みだした。さらに砂鉄を採取した残りの土の大半は下流域に堆積し、現在の出雲平野や安来平野など広大な穀倉地帯となった。たたら製鉄では木炭を焼くための山林は大規模に伐採されたが、永続的に炭焼きができるように約30年周期の輪伐を繰り返し循環利用してきた結果、奥出雲の山々にはブナ林をはじめとする自然豊かな森が多く残り、 たたら製鉄は人と自然とが共生する持続可能な産業だったのである。
そして次の石見銀山でも奥出雲のたたら製鉄と同じような側面があった。それは一般的に銀山の開発では、銀の精錬のために大量の薪炭用木材が必要とされるが、石見銀山では適切な森林の管理がされたことで、環境への負荷の少ない開発がされ、今日にまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されているのである。石見銀山は世界遺産に登録されているけれど、その登録された根拠の一つが、このように山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した銀の生産方式にあり、今日の世界が必要としている環境への配慮というのがすでにこの場所で行われていたことが挙げられているのだ。
以下の画像は大森銀山地区の岩山の上にある石城山観世音寺から見た町並みの様子である。
上画像には石州瓦の赤い屋根がズラリと並んでいるが、この町並みは石見銀山の隆盛によって造られた風景である。石州瓦は、凍てに強く水を通さず固くて丈夫な瓦というのが瓦職人の間で昔から語り継がれてきたらしいが、出雲地方の来待(きまち)石を釉薬に使用することで独特な赤褐色をしており「赤瓦」とも呼ばれていて、いい土を使って1300度の焼成温度の白い光のような炎で焼き締めるから質の高い瓦ができるということである。
赤瓦はここだけではなく、鳥取県や島根県を旅していると、この価格的には決して安くない赤い石州瓦が至る所で見られ、筆者はこの風景を見ることでこの地方の豊かさを垣間見る思いがした。境港の水産物と温泉地の関係を始め、たたら製鉄にしろ、石見銀山にしろ、ここには自然の生産物を上手に循環しながら共生していくという、日本の昔ながらの生活様式が連綿と引き継がれてきた豊かさがあると感じた。
現在の日本は、円安やウクライナ戦争などによって、政治も経済も長く経験していなかった不安定な状況にあるが、東京や大阪などを始めとする大都会は世界経済と密接に結びついているから、この影響をまともに受けるに違いない。しかし今回旅した鳥取や島根の地方は、もちろん経済的にそれなりに多少の影響を受けるのは違いないとしても、大都会のように世界と直結した経済に依拠している地域よりダメージは少ないだろうと思われる。なぜならこの地方は海山の幸が豊富であり、自然循環型社会を昔から踏襲してきていて、イザとなれば海外や日本各地との交流がなくても、ここだけで食っていける基盤が確立していると思うからである。
鳥取県は日本一人口が少ないとのことだが、そんなことはそこで生活している人々が生きていく上で何ら問題ではなく、逆にそのこと故に豊かな人生を送れることも考えられるのではないかと思う。人が生きていくことで、何が大切なことなのかを改めて考えさせられる旅でもあった。
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更新日時 令和 4年 11月 1日