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鮮魚コンサルタントが毎月更新する魚の知識と技術のホームページ
令和 5年 11月号 239
日出ずる国の原点
11月号の海外編を当面中止
FISH FOOD TIMESは、毎年11月号のテーマで海外お魚事情を恒例化していた。しかし令和元年のタイ・バンコク編を最後に、新型コロナウイルスによる海外渡航制限の影響を受け、令和2年以降は海外編を「休止」せざるを得なくなっていた。そして今年からは3年間の休止を経て、11月号の海外編復活を予定していたが、やはり今年も海外編をテーマとすることは出来なかった。それだけでなく、この先当面休止ではなく「中止」することにした。
その理由は環境変化である。その一つは、ここ最近家族の複数人に健康状態の変化があったことの影響であり、第二にやはり円安による費用負担金額の高騰というのは、海外旅行計画に二の足を踏ませることにもなった。第三に令和2年から3年間続いた国内お魚事情編も、これをやってみると日本の魚食文化の奥深さを感じさせられることが多々あり、これがなかなか面白く自分自身の経験のなかではまだ未開拓となっている地域をもっと多く探訪してみたいとの興味が湧いてきて、日本各地への関心が大きく高まるという心境変化が出てきたからである。
読者の皆さんのなかには、あからさまに「11月号の旅行記だけは読むのを楽しみにしている」という、筆者としては喜ぶべきか悲しむべきか複雑な気持ちにさせられる、あまり心から歓迎できないコメントを寄せられる方もいらっしゃる。だが、まあそんな言葉も筆者を励ます後押しの言葉として前向きに捉え、今年も10月末に取材旅行へと出かけることにしたのである。
今年の国内編お魚事情探訪の地域は「鹿島灘に面した茨城・千葉」にした。なかでもその中心は茨城県にして、最北端の北茨城大津港から鹿島神宮へ4日間かけ、そして最後の5日目には日本一の漁獲高を誇る千葉県銚子漁港への旅程を組んだ。
何故この地を選んだのかと言えば、一つはまだ訪問したことがなかった日本三大神宮のうちの二社である茨城県の鹿島神宮と千葉県の香取神宮へのお参りを実現したいこと。二つ目は、北茨城の魚を代表するアンコウに関するお魚事情を知りたかったこと。三つ目は、日本最大の漁獲高を誇る銚子港とはどんなところなのか実際に見てみたかったのだ。
それに加えて、これはおまけのようなものだが、筆者が約50年以上前に在籍していた大学の柔道同好会の先輩から、約5年ぶりに開かれる同窓会へ出席のお誘いを受け、その会場が東京であることから、そこへ参加する日時を絡めて旅程を組むことにしたのだった。
アンコウ料理を求めて北茨城へ
同窓会が10月27日の夕方からということで、10月23日(月)の朝福岡空港を出発し、茨城県の最北端となる大津町へと向かった。11月号のためにおこなう10月末の取材旅行に、令和2年の青森編までは妻もアジア圏を除く海外を含めて同行していたが、その後二年の取材旅行は筆者の一人旅となっている。その理由は、妻の変形性膝関節症がいよいよ悪化し、日常生活に大きな支障はないものの、旅行で長い距離を筆者と同じようなペースで歩くことは基本的に難しくなったからである。このため、令和3年の「近畿・南紀編」、令和4年の「鳥取・島根編」に続いて、3回目の単独取材旅行となった。
しかし、この一人旅というのは宿泊という点でなかなか苦労するのである。昨年の鳥取・島根でも宿泊先探しで苦労していたので今回も覚悟はしていた。特にそれなりのグレードの割烹旅館などは一人ということになると宿泊を拒否される可能性が高いが、このことは民宿も同じようなもので、料理を売りにしている民宿は空きがあっても一人だと断られることが多い。今回の北茨城においても何軒も予約を断られ、最終的に宿泊が決まった宿は、やはり電話口で「えーっ・・・、一人だけですか・・・?」と渋られ、11,000円2食付きの条件でやっと引き受けてくれた。以下の画像はその1日目の宿だ。
ネットで調べた店の画像にあった「アンコウ」の大きな文字の看板に期待して予約したのだが、料理内容は以下の画像だった。左下がアンコウ鍋で最初から鍋になった状態で食卓に置かれていた。
この画像にはないが、これにメヒカリの唐揚げと湯豆腐が加わり、タイの姿造りにはヒラメとマダイが3切れずつ乗せられていた。タイの姿造りの向きは筆者がこうしたのではなく、最初からこういう向きになっていたということは、念のため申し添えておこう。
実はこの日の宿の宿泊者は筆者一人だけということだった。60過ぎかと推測される男性オーナーが一人で何もかも準備されていた。この方はこの店から140qほど離れた茨城県常総市に住んでいて、本業は農業ということだった。宿泊の予約が入った時だけこの店にやってきて仕事をする、片手間商売をされているということを翌朝の会話で知ることが出来た。
この店は創業者が何らかの都合で手放すことになり、この方が購入したとのことで、この他にも駐車場の経営、アパート経営など幅広く多角的に事業をされているとのことだった。某国立大学農学部を出て、ある大手ビール会社に長く勤めた後、こういう仕事をされているという異色の経歴の持ち主だった。
上記したこの内容は、民宿らしく夕食時や朝食後に話しかけてこられたことから分かったことであり、筆者自身も旅の目的や自分の趣味のことなど色々と伝えると、オーナーは筆者のことを面白がってくれて、2日目の朝は結局3時間ほど話し込んでしまい、宿の出発は予定より随分遅くなり10時になってしまった。
ちなみに、朝食で釜のご飯が美味しかったので、比較的大きな茶碗に山盛りにして、三杯分を平らげ釜を空にしてしまった。すると、オーナーはその空になった釜を見て「全部食べたんですか?・・・、残りのご飯を自分の朝食にしようと思っていたのに・・・」と言われ、私は何と返答して良いか分からず「あまりに美味しかったので、74歳のジジイがすべて食べてしまいました」と答えたところ、「そうですか、私の田圃でつくった新米ですから美味しいはずです」と伝えられ、恥ずかしながら納得したのだった。
出浦岬六角堂
2日目の朝は7時に食事をして8時には出発する予定でいたのだが、上記したように何と10時頃までオーナーと話し込むことになり予定は大きく狂ってしまった。しかしこれは話が弾んで充実した時間を過ごせたのだから、結果的には悔やむようなことではなく、この先の旅程において良い意味で予期していない面白いことが起こることを期待することになったのだった。
この民宿は下画像の灯台のほぼ斜め下とでも表現できる至近距離にあり、歩いて行くことも出来る。その名称は大津岬灯台であり、昭和35年に建てられていたが東日本大震災で被災し、平成24年に建て替えられ、今は太陽光で発電される最新式のものとのことである。
そして、そこから車で5分とかからない場所には茨城大学五浦美術文化研究所がある。その施設は、岡倉天心が1903(明治36)年にこの大津町五浦(いづら)を訪れて、この場所をとても気に入って、この地に住むことにしたことから、この関連施設が建てられたということに由来する。
岡倉天心は居住を始めて二年後、突き出した断崖の岩の上に以下の画像の六角堂をかまえ、太平洋の波の音を聞きながら思索にふけったということだ。
そして、その後日本美術院をこの地に移し、横山大観などを代表とする門弟の芸術家が家族と共に移り住んで制作に励んだとのことである。
岡倉天心のことをここで説明するのは簡単ではないが、敢えて少ない文字だけで表現すると、明治以降の日本美術を概念として成立させた功労者の一人であり、現在の東京芸術大学の創立に関わって初代校長を務めた人物である。明治時代に通訳をこなすほど英語が堪能だったことから、世界に日本とアジアの美術を知らしめることに貢献した一人でもある。
そういう明治という時代に世界的な活躍をした美術家が惚れた風景が以下の画像である。
画像の中程に、岸壁から海の方に突き出た岩の上に石灯籠が設置されているが、これはこの風景を和風庭園のように見立てていたからのようだ。この日は快晴の青い空と穏やかな青い水平線の海が風景を二分して、岡倉天心が惚れた素晴らしい絶景を再現してくれていた。
漁業歴史資料館
六角堂から天心美術館見学を経て、車で10分ほどの距離にある北茨城市漁業歴史資料館「よう・そろー」に向かった。ここは大津漁港に隣接し、大津町の大祭「大津御船祭り」で使用される「祭事船」が展示されていた。「よう・そろー」の言葉は、航海用語で船を直進させることを意味する操舵号令である。転舵のあと「今向いている方向でよし」というときに発することが多い。漢字で「宜候」と書き、「よう・そろー」と発声し、宜く候(よくそうろう)の意味ともなる。
この資料館では、祭事に使う実際の船が展示されており、船の格納庫を兼ねた資料館となっている。ここでは館のスタッフの方が祭事船のことを中心にしっかり説明してくれるので色々と理解しやすい。
国指定無形民俗文化財 常陸大津の御船祭 |
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大津町の佐波波地祇(サワワチギ)神社で5年に1度、5月2〜3日に行われる春の大祭である。 国指定重要無形民俗文化財指定の御船祭は、神船の両側に海の幸を描き、御輿を乗せた神船を水主(歌子)の歌う御船歌や囃しに合わせて、300人ほどの曳き手に曳かれ町中を練り歩く。船底に車輪はなく、ソロバンとよばれる井桁状に組んだ木枠100丁を敷き、20、30人の若者が船縁にとりつき左右に揺らしながら木枠の上を滑らすように曳いていく。 (北茨城市観光協会ホームページより抜粋)動画 https://www.youtube.com/watch?v=2hod1RRCBfQ |
資料館内は北茨城の魚を代表するアンコウについて分かりやすく資料が展示してあり、ここで旅の目的の一つが面白い形で実現したと思った。
この資料館を出ると、同じ敷地内には食堂が軒を連ねており、その側には大津漁協直営市場食堂というのがあったので、そこで昼食をとることにした。
市場食道という看板なので少しだけ料理内容に期待し、注文したのは釜揚げしらす丼で1,400円だった。しかしお客としてターゲットにしているのは観光客だからだろうか、釜揚げしらすを丼のご飯の上に単にのせただけであり、味付けに何も工夫はなく、シラスの塩気だけなので、その価格とのバランスからすると、この料理をあまり評価できなかった。
大洗の割烹旅館肴屋本店へ
昼食の後、そこから75kmほどの距離にある大洗町の宿泊先の方へと向かうことにした。その途中、国営ひたち海浜公園に寄ることも考えたが、広大な規模の公園を見学するには時間的な制約もあり、もっと手軽に見学できる規模である穂積家住宅に立ち寄ることにした。
北茨城市漁業歴史資料館から17kmほどの距離にある、江戸時代後期に民家として建てられた豪農の旧家跡穂積家住宅に、14時過ぎに着いて1時間ほどをそこで過ごした。下画像の立派な作りの建物はそこの入口となる門であり、長屋門と呼ばれる茨城県指定重要文化財とのことだ。
門を潜ると、敷地1,300坪の中に見事な五段茅葺き屋根の主屋があった。
この茅葺き屋根のふっくらとした見た目は実に優しい印象であり、そこに住む人をほっこりと包み込んでくれる包容力のようなものが感じられた。そして、五段茅葺き屋根という説明が記されていたけれど、単純に五段ということではなく、随所に色々な工夫が施されており、日本の建築様式の一つがここに民家の形として表現されていると思った。
穂積家住宅の見学を3時過ぎに終え、この日の宿泊地大洗町へと向かった。大洗町の手前にはひたちなか市があり、この地域を分けているのが那珂川である。奇しくも筆者が住む那珂川市の中央を流れる那珂川とまったく同一の名称であり、なぜ同じ那珂という文字が当てられたのか興味があって調べてみたが解答を見いだすことは出来なかった。
福岡県の那珂川は脊振山に源を発し、那珂川市、福岡市の中央を流れ、博多湾に注ぐ全長35kmの二級河川である。この二級河川にはダムが三つもあり、ダム以外に水利組合の水道があり、那珂川市だけではなく福岡市や春日市にも引かれていて、昔と比べると水量が激減している印象がある。
そのいっぽう、今回初めて見た一級河川である茨城県の那珂川は水量満々で流れていた。源を福島県と栃木県の境界に位置する那須岳(標高1,917m)に発し、栃木県内の那須野ヶ原を南に流れて茨城県に入り、平地部で南東に流れを変えながら太平洋に注ぐ、幹川流路延長150kmの一級河川である。こうして二つの那珂川を比較してみると、茨城県の那珂川は福岡とはまるっきり規模が違う豊富な水量の大きな川であることをこの目で確認することができた。
そして、2日目の宿泊先である割烹旅館肴屋本店 に到着した。
事前の計画では北茨城の民宿でアンコウを堪能するはずだったので、ここでは「アワビ&海の幸に舌鼓コース」の二食付き15,400円を選択していた。1日目の夜のアンコウで計算違いが出ていたので、本当はここでアンコウ料理にすべきだったが、ドタキャンのコース変更は迷惑をかけると判断し、そのままコース変更はしなかった。以下の画像がその料理内容である。
割烹旅館肴屋本店 「アワビ&海の幸に舌鼓コース」 | |
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活きアワビ | ショウサイフグ唐揚げ(揚げたて) |
サンマ塩焼き(焼きたて) | バイ貝煮物 |
マグロ、カンパチ、ヒラメ、地ダコ、カツオタタキ刺身(コース料理全体) |
アワビは刺身ではなくステーキにして食べる形であり、自分でアワビを固形燃料用コンロの上の鉄板に乗せて調理するのである。
さすがに割烹旅館と名乗るだけあって料理は厳選された素材と味付けであり、全てプロが手がけた料理の世界だと感じた。そのなかで、メインのアワビだけは筆者が自分の好みに仕上げるのである。謂わばアワビを「火炙りの刑」にするのであり、コンロの火力を感じてもがき苦しむ様子を冷たく見ている自分に対して、我ながら残酷なものだと思った。火炙りの刑の様子を動画を2分20秒撮っているので、時間と興味のある方はどうぞご覧あれ。
アワビが焼き上がり、ステーキナイフでカットし、食べる前の状態が上の画像である。殻から外された可食部位は随分と小さく感じたが、柔らかくなったアワビは醤油も塩もかけなかったけれど、適度な薄い塩味ががあり美味しく食べることが出来た。
(ついでに言い添えると、翌朝この旅館の朝食で、前日同様に釜に入ったご飯が美味しく、すべて平らげてしまった。ここの場合、量的には茶碗山盛り二杯分と少なめだった)
那珂湊おさかな市場
3日目は、ひたちなか市の那珂湊漁港に隣接する「那珂湊おさかな市場」が優先訪問先である。開場時間は9時からとなっていたので、肴屋本店の近くの大洗磯前神社にお参りをし、那珂湊魚市場の様子を確認してから那珂湊おさかな市場に行った。
上画像は那珂湊魚市場の様子である。漁船が横付けされて魚が水揚げされている様子はなく、人もいなくて出入口の門は閉ざされ、活気ある魚市場という光景ではなかった。
いっぽう、陸地側の岸壁を見るとそこには派手な看板の店がズラリと並んでいた。
そこへ行ってみると、幾つもの魚屋さんが軒を連ねており、地元だけではなく全国から運ばれてきた様々な鮮魚が販売されていた。その様子を以下にコメント抜きの画像だけで紹介しよう。
那珂湊おさかな市場の鮮魚売場風景 | |
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那珂湊おさかな市場に入って、一つ目の店で発見したのが大きなアンコウだった。筆者は「ウワーッ、やっと出会えた・・・!」と声をあげそうになった。8.8kgが16,000円、9.2kgが13,000円となっていたけれど、30分後に16,000円のアンコウは売場から姿を消していたので売れたのだろう。
売場の様子を見ていくと、魚種の品揃えはどちらかと言えば地元の玄人筋よりも、遠方の東京方面などからの観光客をターゲットにしているのではないかと感じられるものがあった。その理由は、筆者自身もそこでお土産の買い物をしたのだが、筆者の前や後ろでレジに並んでいる人たちを観察すると、いかにも地元ではない服装の人たちが多く、さらにはレジを終えた人たちが宅配便の発送依頼をするための場所に何人も並んでいたからである。
那珂湊おさかな市場は、品揃えが悪くて魅力がなくなってしまったスーパーの魚売場を見限り、そこに期待をしなくなった魚好きの人たちの需要を満たす代替機能を果たしているのではないかと考えさせられるものがあった。
大洗から水戸・土浦の内陸部へ
この日は茨城県内陸部の土浦市のホテルを予約していた。その理由は、今から46年前に当時筆者が勤めていたスーパーから企業内留学として派遣され、全寮制の宿舎で半年間寝泊まりして学んだ竹岸食肉専門学校を久しぶりに訪問する計画をしていたからである。
ひたちなか市から土浦市までは約60kmほどあるが、そのまま直行するのではなく水戸市を経由して、日本三大名園の一つである偕楽園に立ち寄ることにした。偕楽園と徳川ミュージアムの訪問は筆者の主目的ではなく立ち寄り先の観光なので、そのことについて記述するのは省くことにしたい。
水戸を出発したのは13時前で、別に急ぐ用があるわけではないので常磐自動車道を使わず、国道や県道を使って土浦市に向かった。茨城県は広い平野部と一部のなだらかな丘陵地帯があるだけで、山らしい山はほとんどなく、茨城県でトンネルを通過したのかどうかまったく記憶がないのだ。車を運転していて感じた茨城県の印象は「大陸的な風景」というもので、狭苦しく窮屈なことを感じることはほとんどなかった。
15時30分頃に目的の竹岸食肉専門学校に到着した。ここへの道中は46年前の様子とあまりに違っていて、車のナビに案内されていても、その道案内が正しいのかどうかを疑うほどだった。そして到着した学校の門構えは記憶にある風景だった。
当時、全国のスーパーや食肉専門店から派遣された学生は半年コースで約100名、1年コースが30名ほどであり、午前中に牛肉、豚肉、鶏肉などの解体実習、午後は衛生や計数などの関連知識などの講義が組まれていた。筆者が属していた会社からの同期生は5名であり、合計6名の社員を半年間全寮制の宿舎で学ばせ、しかも給料付きなのだから、トータルでは相当高額な費用負担となることが考えられる。謂わば将来の経営レベルの管理職を想定した生鮮のエリートコース候補者に、当時所属していた会社は思いきった教育投資をしたのだろうと思われる。
筆者は30年以上水産のコンサルタントを続けているが、この学校で食肉という食材を取り扱う基本知識を学ばせてもらい、その知識を水産部門に応用しながら今の仕事をしていくことになったのだから、この学校での経験は本当にありがたいと感謝している。
筆者は竹岸食肉専門学校で学ぶ前も、そしてその後も水産部門での仕事を担ったので、本当に純粋に肉を通して魚の取り扱いの基本知識を学んだということになる。学校に派遣される前に人事担当者から「学校から戻って直ぐに辞めるんじゃないぞ・・・」と強く釘を刺されていたけれど、その後の会社そのものの大きな変遷を契機として、筆者は会社を辞めるしかない状態に追い込まれていったのだった。
筆者は正門から中へ入らず、周囲の様子を伺いながら当時を思い出し、懐かしい時間を30分ほど過ごしてホテルへと向かった。
時間はまだ5時前だったのでチェックイン時間には早く、土浦市内のピアタウンという比較的大きな規模のショッピングセンターに立ち寄った。
この中に入っているスーパーはカスミであり、イオン系に特徴的な合理的で効率的な品揃えに絞られた魚売場があり、特に筆者が興味を引くものはなかったのでテナントゾーンへと向かったところ、そこで非常に面白い売場を見いだした。
そこは出羽屋という名前の佃煮屋さんだった。その売場は広くて、なかなか高級感もあり、霞ヶ浦で漁獲されたワカサギなどの小魚を佃煮にして販売している店だった。土浦市ではワカサギ関連の商品を手に入れたいと考えていたから、この店との出会いは渡りに船という感じのタイミングだった。
女性の店員さんと話をしてみると、この店はピアタウンが開店した45年前からずっと続いているとのことだった。このように長く続いていることを誇りにされていて、その口ぶりはまるで出羽屋社長の奥さんとでも受け取られるほどであった。その誇り高き店員さんのお勧めに従って、以下の画像の商品を購入した。
霞ヶ浦産のシールが貼られたワカサギが550円、アミが400円だった。出羽屋は昭和7年に創業し、霞ヶ浦で獲れる小魚をはじめ、湖と海の魚を使い、霞ヶ浦湖畔の本社工場でひと釜ずつ炊き上げ佃煮・煮干をつくっているようだ。独自のタレを使い、甘口に仕上げた佃煮で、これまでに全国の水産加工展で農林水産大臣賞を8回受賞したということである。
この日は茨城県の内陸部へと向かったつもりだったのだが、土浦市は霞ヶ浦という日本で2番目に大きい湖に面しており、霞ヶ浦の光景は海の大きさを感じさせるものがあった。それもそのはずで、昔の霞ヶ浦は銚子方面から海が内陸部に深く入り込む大きな入江を持つ香取海の一部だったということであり、それが現在のような淡水湖の姿になったのは江戸中期以降のことらしい。
筆者は出羽屋の店づくりがとても気に入った。特に上画像の左上にある、丸で囲んだイメージ写真はとても好ましく感じた。画像を拡大すると以下の画像になる。
これは、まさに海のような霞ヶ浦を象徴していると感じた。たぶん今時こんな帆掛け船なんかないのではないかと思われ、大きく膨らんだ帆の形の優美さには惚れ惚れとしたのだった。
そして、この日の夜は今回の旅で初めてのホテルだった。「ホテルマロウド筑波」は土浦駅前から少し離れた位置にあり、下調べをしてホテル周辺に居酒屋はないと分かっていたので、ホテル内のレストランで食事をすることに決めていた。
そして、13階のスカイラウンジヴォジュールで注文した料理が以下の画像である。
「サーモン・帆立・エビのポワレ」という料理で4,000円だった。これにビールやウイスキーを数杯飲んだ結果、レストランの合計金額は10,350円となった。しかし今回は「全国旅行支援の茨城割り」というのがあって、前日の肴屋本店とこの日のマロウド筑波で2,000円ずつの買物クーポンが付いていた。このレストランで合計4,000円分のクーポン全てを使うことにして、支払いは6,350円で済んだのだった。宿泊代も2日間はそれぞれ3,000円ずつ割り引かれていたことから非常に得した気分だった。
ホテル13階のスカイラウンジで夜景を眺めながらの食事は、一人という寂しさがないことはないけれど、ビールとウイスキーのアルコールが1日の疲れを心地良く飛ばしてくれたのだった。
日高見国から銚子港へ
さて、この日で4日目10月26日(木)となった。この日は「日出ずる国、日本」の原点となった日高見国の原点を訪ねる旅である。
今回の旅のサブテーマとも言える、その対象は三大神宮の内の二つ、鹿島神宮と香取神宮を訪問することである。伊勢神宮と並ぶ社格の神宮がなぜこれほど近接して存在するのかという疑問を以前から持っていたことから、今回初めてお参りすることになる二大神宮の訪問を非常に大きな楽しみにしていたのである。
この日は土浦市のホテルからのルートとして、牛久大仏、香取神宮、鹿島神宮を経て、銚子市のホテルに向かうことにした。牛久大仏がある浄土真宗東本願寺派本山東本願寺には8時過ぎに着いた。下の画像ではその大きさはとても伝えられないが、とにかくとてつもなくでっかい大仏である。
牛久大仏は青銅製立像として世界一高いことがギネス世界記録に登録されているが、牛久大仏のホームページから参照させてもらった以下の資料で、その大きさを何とか理解できるのではないかと思う。
大仏胎内の中にはエレベーターがあり展望できるということだが、あいにく9時30分開園のために塀の外から写真を撮ることしか出来なかった。しかし、ここは立ち寄り程度の気持ちだったので、そそくさと出発し香取神宮へと向かった。
香取神宮まで約40km、1時間近くの行程は実になだらかな道のりで、何も遮るものがない広々とした光景が次々と広がっていた。そして、このような風景が続いた先にこんもりとした森が現れ、そこが香取神宮だった。
これは本殿へ向かう境内の参道であり、両脇には全国から寄進された石灯籠がズラリと並んでいた。
この鳥居は総門を前にした貫がある石造りの明神鳥居である。そして、総門を潜って桜門を通り、行き着いたのが香取神宮本殿である。茅葺き屋根はなだらかな曲線を描いていて実に優美で、二軒の下は朱色や緑色できれいに装飾されていて、前日の穂積家住宅五段茅葺き屋根とは違う優雅さを湛えていた。
筆者は鹿島神宮と香取神宮という三大神宮のうちの二つが、なぜこれほど近くの距離に存在しているのかを疑問に思っていた。しかし、その疑問は香取神宮の参道に入る前の看板の説明を読むことで解決したのだった。
御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ) である。そして鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのかみ)である。この二神は出雲国に出かけ、力を合わせて大国主神(おおくにぬしのかみ)から葦原中国(あしはらなかつくに)の国譲りを受けた、その内容がイラスト付きでここに表現されていた。
つまり、経津主大神(ふつぬしのおおかみ) と武甕槌大神(たけみかづちのかみ)は日本建国の礎を築いた二神だということで、その至近な距離に関係なく三大神宮の二つに数え上げられていることが理解できたのだった。
次に向かったのは、距離で25km、時間にして50分ほどにある鹿島神宮である。
上の画像は鹿島神宮の楼門であるが、左右は工事の覆いがされていて、更には本殿と拝殿にもほぼ外観が分からないほど工事の足場が組まれていた。これは令和の大改修の真っ最中とのことであり、タイミングとしてはあまり良くなかったのだった。
そこで、元の本宮社殿である奥宮の方にお参りすることにした。
この奥宮の前にある鳥居は、やはり貫がある石造りの明神鳥居であり、香取神宮との共通性を感じることが出来た。奥宮への道のりの途中には、筆者はまったく予想もしていなかった非常に面白いものがあった。
これは全国に少なくとも35例はあると言われる 「さざれ石」である。このさざれ石があの君が代に歌われたものと関係あるかどうか真偽のほどは定かでないが、少なくとも非常に大きく立派な石である。
日本では古代より小石のことをさざれ石と呼んでいた。古今和歌集では以砂礫(サザレイシ)と記し、日本国家の歌詞として採用され、「君が代」と呼ばれるようになる歌「わがきみは千世にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで」を収録した。古今和歌集では、その序文で「さゞれいしのいはほとなるよろこびのみぞあるべき」と記しており、巨石信仰が「君が代」一首に因らないことを明らかにしている。
次は、下画像の要石である。
石の見えている部分は僅かだが、昔この石の回りを七日七夜掘っても掘っても掘りきれず、掘るに従って大きさを増し、そのとどまるところを知らない石ということだ。要石は御座石(みましいし)とか、石御座(いしのみまし)とも呼ばれ、地震押さえの伝説もある霊石となっている。
こうして、香取神宮と鹿島神宮の両方を訪問してみると、筆者は改めて日高見国の存在を確信することになってきたのである。
上の図は、田中英道東北大名誉教授が記された「日本建国史」のPDF資料を参照したものであり、この内容についてまったくの素人である筆者がコメントするのは避けておこう。この図を読者の皆さんが信頼するかしないかお任せするしかないが、筆者は同じ資料に描かれた以下の図にも説得力を感じているのである。
世界中に神話と呼ばれる物語はたくさんあるようだが、日本の神話ほど歴史的に一貫性のあるものは他に存在しないと言われている。太平洋戦争で日本が敗戦した後に押しつけられた「日本神話を無視し、歴史を歪曲した間違った戦後歴史教育」によって日本は自虐思想に苛まれることになった。日本の歴史は本当のところ何が正しいのか、歪曲されていない歴史的事実とは何なのか、改めて問い直したいものである。
鹿島神宮は14時前後に出発し、銚子市へと向かった。16時前には銚子市に到着したので、そのまま犬吠埼灯台へと向かい、そこから引き返して銚子漁港のある位置を確認し、翌朝の銚子漁港訪問に備えることにした。
銚子市では美味しい魚をタップリ食べたいと張り切っていた。しかし昨年の境港の時と全く一緒のパターンとなってしまった。ホテルフロントで紹介された居酒屋に行ってみると予約で一杯で入れず、結局どこにでもある普通の焼き鳥屋みたいなところしか入れる店はないことになったのだ。又もや、大きな漁獲高を誇る水産都市によくある「産地貧乏」とでも言えるような、地元経済を軽視したような食の環境に振り回されたのだった。
銚子漁港、埴輪博物館
日高見国と鹿島灘探訪の旅はこの日最終日を迎えた。今年の11月号は随分長い記事となってしまったが、ここまでじっくりと読み進めてもらった読者は何人いらっしゃるだろうか。筆者はついついあれもこれもと書いてしまって申し訳ないが、あと少しだけ付き合ってほしい。
銚子漁港には5時前に到着した。しかし、どこも人がいなくて活気がないのである。下の画像は前日の夕方に漁船の船だまりで撮ったもので、横に6列、縦に10列ほどはあると推測できる何十艘もの漁船が係留されていたので、さすがに銚子漁港だと思った。そしてこの光景を見たことで翌朝のことをしっかり期待することになった。
ところが、朝の5時に銚子漁港に行ったが、約4kmの距離の中にある第一卸売場、第二卸売場、第三卸売場のどこに行っても誰もいないのである。4kmの距離を何度往復してもそのような気配はなく、1時間半もの間やたら動いても、結局何も収穫はなかったのだった。
本当は市場開場日などを入念に下調べすべきだったのかもしれないが、今回は旅の行程上この日しかなく、他の日を選べないと判断しての行動だった。一つ慰めとして、日本一の水揚げ高を誇る銚子漁港がどんなところかを知ることが出来ただけでも良しとしようと自分に言い聞かせたのだった。
次に、最後の訪問先は、銚子漁港から約50km、1時間の距離にある千葉県芝山町にある「芝山古墳はにわ博物館」である。
館内に入ると、古墳時代のことが埴輪を始めとする大小様々な出土品や古墳の種類、古墳の分布図などによって、古墳時代を考察できるようになっている。
展示されている埴輪は以下の画像である。
出土した埴輪の数々 | |
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そして、埴輪というものがどんなものかを理解するために分かりやすいのが、以下の画像であろう。
この埴輪を見て、皆さんは日本人だと思うだろうか。これは間違いなく紀元400年から600年代の古墳時代、日本の古墳から出土したものである。
上の現在の画像と比較してみてほしい、埴輪にそっくりではないか。敬虔な正統派ユダヤ教を信奉する人の典型的な格好である。特に長い鬢の美豆良(みずら)と長い顎髭の特徴は、日本の古墳から出土した埴輪と本当にそっくりである。
田中英道東北大名誉教授は、このような埴輪を日本人ではなくユダヤ人であると主張されている。つまり、すでに古墳時代より前の縄文時代には、太陽崇拝のユダヤ人が世界の東端にある「日出ずる国」を目指してやってきていたということである。その証拠に日本人のDNAは地中海に住む民族に多くて世界では珍しい古代血統のY染色体D系統が多いのである。日本ではハプログループDのD1bが多く沖縄もD1bが多いが、中国や韓国はハプログループOが多く、そのなかでもO2が1番多く、O1bが2番で、Y染色体D系統は僅かなのである。
つまり、古墳時代はおろか紀元1万年前の縄文時代から、土着の日本人は遠く中東などの遠方から渡来したユダヤ人との混血が進んでいたことが想定され、中国人や韓国人との血のつながりよりも濃いことが考えられるのである。
この辺のことにあまり深入りしてしまうと、FISH FOOD TIMESのテーマから外れてしまうので、ここで打ち切りたいと思う。しかし、戦後に隠蔽されたり、ねじ曲げられたりした虚偽の歴史教育から離れ、本物の歴史を自分の力で学んでいくと実に面白い、ということを読者の皆さんにお伝えしておきたい。
旅の総括
今回の旅の最後10月27日(金)は、芝山古墳はにわ博物館をでた後、東京に住む娘から借りていた車を返却し、16時集合の同窓会の会場に向かった。
同窓会の参加者は、筆者が当然ながら今朝福岡を出発して東京に来たと思っていたのに、福岡を離れて今日で5日目だと伝えると、皆一様に驚きの反応を示したのだった。この5日間計画通りにはいかず予定が狂ったことが幾つもあったけれど、全体としては非常に充実した旅になったと感じている。
特に長年抱えていた疑問がこの旅によって解決したことがいくつかあり、これは本当に収穫だった。また、これは既に上記したことだが、鹿島神宮と香取神宮が近接している理由が分かったことがその一つであり、もう一つは約300年続いた古墳時代が終わりを迎えた原因が、仏教の伝来によって「古墳造成ではなく寺院建築の方に移行した」からだということだった。
上記したようなことは、おまえが不勉強だから知らないに過ぎないと言われればそれまでだが、筆者にとってはそれらは不明のことだったのである。人にはそれぞれ知識、経験、年齢などの違いがあるはずで、筆者は古墳時代のことを良く知る機会がなかったのである。
旅というのは、ただ漫然と動くだけでは知識や経験の蓄積として残りにくいかもしれない。やはりメインテーマとサブテーマを明確にして旅をすると、その収穫は大きいものになると思う。だがしかし、特に目的はなくても、また予定にはなかったことに遭遇してしたり、計算違いによって失敗をやらかじても、それは良くも悪くも思い出として刻み込まれることになる。
旅を終えてみると、結果として「マイナス側面の出来事」の方がかえって良く記憶しているものであり、後になってみると、そういったことの方が思い出として深く刻み込まれている。そのマイナスの思い出を後で後悔することになるかと言えば、そうではなく「そのことが懐かしく、ついニヤニヤしてしまうような思い出」になるのだ。
人生は「思い出作り」である。出来れば「良い思い出」をたくさん残して人生を終わりたいものである。
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更新日時 令和 5年 11月 1日