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No.214 正露丸で安心、胡麻サバ  令和3年10月号
No.213 魚屋は真夜中に刺身を引き始める  令和3年 9月号
No.212 カツオ・イカ紅白刺身盛り合わせ  令和3年 8月号
No.211  肝なしウスバハギ刺身&鮨  令和3年 7月号
No.210  でかいタチウオ   令和3年 6月号
No.209 モンゴウイカ商品   令和3年 5月号
No.208 ビンナガ若魚平造り  令和3年 4月号
No.207  テングニシ刺身盛り合わせ   令和3年 3月号
No.206  ホウボウ姿造り   令和3年 2月号
No.205  鮭を二日に一切れ  令和3年 1月号
No.204 ハタハタ刺身&にぎり鮨 令和2年 12月号
No.203 青森の魚
令和2年 11月号
No.202 ツムブリ刺身
令和2年 10月号
No.201 チカメキントキ皮揚げ
令和2年 9月号
No.200 シマアジ刺身&鮨
令和2年 8月号
No.199 グルクン刺身姿造り
令和2年 7月号
No.198 スズキの商品化
令和2年 6月号
No.197 カツオ銀皮造り刺身
令和2年 5月号
No.196 ボタンエビ刺身
令和2年 4月号
No.195 ブリ商品
令和2年 3月号
No.194 ニシン骨切り
令和2年 2月号
No.193 魚屋鮨の魅力
令和2年 1月号
No.192 マダラの鍋用切身
令和元年 12月号
No.191 バンコク魚食事情
令和元年 11月号
No.190 ハガツオ刺身&鮨
令和元年 10月号
No.189 塩茹で花咲ガニ
令和元年 9月号
No.188 ベラにぎり鮨
令和元年 8月号
No.187 赤ウニイカ鮨
令和元年 7月号
No.186 イシガキダイ刺身
令和元年 6月号
No.185 アオダイ刺身
令和元年 5月号
No.184 ヨコワで作る刺身と鮨
平成31年 4月号
No.183 スルメイカを美味しく
平成31年 3月号
No.182 改めて、明太子とは?
平成31年 2月号
No.181 魚売場の活性化
平成31年 1月号
No.180 メスは冬、オスは夏
平成30年 12月号
No.179-2豊かな自然と多民族都市バンクーバー
平成30年 11月号
No.179-1成長企業がシアトルの未来を変える
平成30年 11月号
No.178ヒラスズキ鮨&切身
平成30年 10月号
No.177 メイチダイ刺身&鮨
平成30年 9月号
No.176 店内手作りタコ
平成30年 8月号
No.175 ウナギ鮨盛合わせ
平成30年 7月号
No.174 マアジのバラエティ
平成30年 6月号
No.173 ヒメダイ姿造り刺身
平成30年 5月号
No.172 クロダイ料理
平成30年 4月号
No.171 ヒメシャコガイ姿造り刺身
平成30年 3月号
No.170 ヌマガレイ刺身&にぎり鮨
平成30年 2月号
No.169 魚屋鮨スタイル
平成30年 1月号
No.168 ズワイガニ付加価値商品
平成29年 12月号
No.167 イタリア魚料理の一端
平成29年 11月号
No.166 シログチの平造り刺身にぎり鮨・切身
平成29年 10月号
No.165 アカヤガラにぎり鮨&薄造り刺身
平成29年 9月号
No.164 オオシタビラメにぎり鮨&薄造り刺身
平成29年 8月号
No.163 センネンダイ薄造り&炙り刺身
平成29年 7月号
No.162 スズメダイ料理
平成29年 6月号
No.161 イトヨリ昆布締平造り
平成29年 5月号
No.160 メナダ薄造り刺身
平成29年 4月号
No.159 オニカサゴ刺身
平成29年 3月号
No.158 マトウダイ薄造り刺身&にぎり鮨
平成29年 2月号
No.157 魚職不朽
平成29年 1月号
No.156 ヒラアジ薄造り刺身
平成28年 12月号
No.155 上海蟹料理
平成28年 11月号
No.155-2 上海魚料理
平成28年 11月号
No.154 赤イサキ刺身&鮨
平成28年 10月号
No.153 アオハタ薄造り刺身
平成28年 9月号
No.152 コシナガマグロ平造り刺身
平成28年 8月号
No.151 アカエイの刺身&鮨
平成28年 7月号
No.151-2 アカエイ料理
平成28年 7月号
No.150 アユの背越し姿造り
平成28年 6月号
No.150-2 アユの姿鮨
平成28年 6月号
No.149 スジアラ炙り刺身
平成28年 5月号
No.148 ミンク鯨畝須スライス
平成28年 4月号
No.148-2 ミンク鯨赤身の刺身&にぎり鮨
平成28年 4月号
No.147 スマの炙り平造りとにぎり鮨
平成28年 3月号
No.146 オヒョウ刺身
平成28年 2月号
No.145 ナマズ刺身薄造り
平成28年 1月号
No.145-2 ナマズにぎり鮨
平成28年1月号
No.144 ソロバン玉の串焼き
平成27年12月号
No.144-2 ボラの洗い造り
平成27年12月号
No.143 海を隔てた魚食の違い
平成27年11月号
No.143-2 海を隔てた魚食の違い
平成27年11月号
No.142 マイワシづくし(刺身&にぎり鮨)
平成27年10月号
No.141 ヒラマサ切身姿売り
(平成27年9月号)
No.140 グルクマ刺身平造り
(平成27年8月号)
No.139 トコブシ刺身盛合わせ
(平成27年7月号)
No.138 活アイゴ平造り
(平成27年6月号)
No.137 マナガツオ炙り平造り(平成27年5月号)
No.136 ハマダイ骨付き頭付き切身(平成27年4月)
No.135 サヨリ姿造り・にぎり鮨・酢の物(平成27年3月)
No.134 真鯛にぎり鮨(平成27年2月号)
No.133 生魚対面裸売りの勧め(平成27年1月号)
No.132 イラの刺身(平成26年12月号)
No.131 ロブスター刺身姿造り(平成26年11月号)
No.130 真サバ炙り平造り(平成26年10月号)
No.129 紅鮭ステーキ(平成26年9月号)
128 コイの洗い(平成26年8月号)
127 旬線刺身盛合わせ(平成26年7月号)
126 エツ刺身姿造り(平成26年6月号)
125 メバル薄造り(平成26年5月号)
124 旬のアマダイの鮨と刺身(平成26年4月号)
123 本マグロづくし刺身盛合わせ(平成26年3月号)
122 寒メジナにぎり鮨(平成26年2月号)
121 うなちらし(うな重)平成26年1月号)
120 アルゼンチンアカエビの魅力(平成25年12月号)
119 シドニーフィッシュマーケット(平成25年11月号)
118 生秋鮭焼霜刺身(平成25年10月号)
117 カンパチ腹トロ薄造り(平成25年9月号)
116 イスズミ平造り(平成25年8月号)
115 ヤリイカ姿造り(平成25年7月号)
114 イサキ姿造り(平成25年6月号)
113 ウマヅラハギ薄造り(平成25年5月号)
112 片口鰯にぎり鮨(平成25年4月号)
111 旬鮮刺身ちらし鮨(平成25年3月号)
110 生アナゴにぎり鮨(平成25年2月号)
109 魚屋鮨鉢盛り大トロ5カン入り(平成25年1月号)
108 アラちゃんこ鍋(平成24年12月号)
107 サーモンレタス裏巻き(平成24年11月号)
106 秋太郎平造り(平成24年10月号)
105 コノシロ糸造り(平成24年9月号)
104 活鱧の刺身(平成24年8月号)
103 Bad money drives out good money(平成24年7月号)
102 コチ薄造り(平成24年 6月号)
No.101 キビナゴ開き造り(平成24年 5月号)
No.100 アトランティックサーモン薄造り(平成24年 4月号)
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令和 3年 11月号  215

伊勢エビを求めたが・・・


一人旅

毎年11月号恒例の「海外お魚事情」は、読者の皆さんご存じの通りの世の中なので今年も中止せざるを得なかった。そこで年初にはあらかじめ確保している10月の旅行予定期間に、国内の伊勢志摩訪問を妻に提案した。だがその返答は「11月の初めに書道の昇段試験が控えているから、一人で行ってらっしゃい」という思いがけない言葉だった。

10月には国内のあちこちで解禁となる伊勢エビを食べに伊勢志摩へと考えていたが、一人旅となるとこれまで夫婦二人を前提としていた旅を、今回は少し違ったものにしてみようと考えた。海外の場合、妻が行こうとしないアジア諸国だけはこれまでも一人で行ってきたけれど、国内旅行となるとやはり普通の旅行では面白くないと思ったのだ。

家内はあまり健脚ではないので、旅先では移動手段として車両などがないと行動が制限されるという事情があったけれど、今回は体内年齢50代を誇る健脚自慢の筆者のみである。そして考えついた結論は、長く使用していなかったトラキャンを愛車ハイラックスに積み、その後部には電動自転車を積んで「サイクル&トレイン」ならぬ「サイクル&トラキャン」を決行することにした。

上画像のように、筆者が電気溶接で自作した取り外し可能なステップに電動自転車 Panasonic Hurryerを載せて行くことにした。下の画像で、キャンパーが後ろにずれていて、もっと前にならないのかと感じる方もいらっしゃるのではないかと思うが、このハイラックスはウインチ付き電動クレーンを備えたタイプの2ドアエクストラキャブなので、その幅の分を後ろにずらさなくてはならないのがその理由である。クレーンがついていない普通のエクストラキャブであれば、すんなりとバランス良く収まるのだ。

旅先の目的地で行動する場合は、上画像のように電動自転車をステップから降ろして使った。このやり方は旅先で本当に素晴らしい行動力を発揮することになり、ハッキリ言ってレンタカーなどよりずっと合理的な方法だと感じた。しかし、トラキャンそのものは長く使っていなかったのでトラブルの連続であり、暫くメンテナンスをしていない機械装置は「使ってくれなきゃ、イヤ!」と駄々をこねるものだと強く反省することになった。

このトラキャンは2006年12月にハイラックスで山梨県まで出向いて購入し、福岡に積んで帰ったアメリカ製 SIX PACというものだが、これを山梨県のMYSTICという会社が日本仕様へと構造変更して販売していたのである。実はこのトラキャン 2008年10月に使って以降そのまま全く使わずに放置していた。放置していたと言っても、以下の画像のように風通しの良い開放型の屋根付き車庫にずっとしまっていたので、長く放置していた割りに車内にカビは一切なく、外周りのシーリング、パッキンなどの経年劣化もそれほど目立たっていなくて、見た目だけはそこそこ立派な状態だった。

ところが、トラキャンをハイラックスに積んでみるとあれもダメこれもダメと、色々支障があることが判明した。今回いきなり困ったのが、トラキャン用のバックカメラが映像を映さないのである。これだけの巨体を積んで、長さがステップを増設した分長くなっているので、全長6mは超えないまでも5m50pほどにはなっているから、バックカメラなしでは危険で身動きがとれないのだ。この問題については、20年以上長く懇意にしてもらっているホーム・カー・ドクターが所在している会社を訪ね、出発日に新しいカメラを付け替えてもらって事なきを得ることになり、予定通りの時間に出発することが出来たのだった。


京都・奈良・伊勢・志摩・南紀・熊野・高野山へ

旅行期間は10月16日(土)から10月23日(土)までの7泊8日だったが、事前に予約したのは16日夜の名門大洋フェリー新門司港発大阪南港行きだけであり、その他は帰りのフェリーを含め全く何も予約しなかった。それはハイラックスに簡易宿泊施設を積んでいるわけだから、成り行き次第で何とかなるだろうと考えたからである。確かになんとかなったのだが「このような生活を続けていたら、早死にするな・・・」というのが偽らざる心境である。

そもそも伊勢志摩行きのはずが、なぜ京都・奈良・伊勢・志摩・南紀・熊野・高野山まで拡大してしまったのか、それはこのところ筆者の関心事が「古建築」へと向かっていたからであり、その本場である京都・奈良の寺社仏閣を訪問して学んでみたいと思ったからである。

古建築への興味というのは、第一に弊社の事務所と道を挟んだお向かいさんである正法寺に約1年がかりの歳月を要して、以下の画像の三重塔が建設されたからであり、第二に弊社が入居している家屋は寺社仏閣を建てることを専門とする宮大工の頭領が造って住んでいた建物であり、随所に寺社仏閣の特徴が散りばめられている、一般的な和風建築とは少し違っている建物である。しかし築後43年を経た建物はこれもまた筆者が20年間ほぼ放置していたために、経年劣化であちらこちらに問題が生じ、筆者は趣味の日曜大工の腕を駆使してこれらを修理することになり、そのたびに和風建築とその技術の奥深さを色々感じさせられていたからである。

正法寺三重塔

 

上画像の正法寺三重塔は筆者が今年5月に撮ったものであり、7月には内部もほとんど完成したようなのだが、新型コロナウイルス禍もあって、そのお披露目は延び延びとなっているようである。だが、このところ境内での人の動きが激しくなってきているので、マスコミへの発表を含めて正式な形での一般公開は間近ではないかと感じている。

まさに見た目は金ピカというか、材料として使われている檜がまるで黄金色に輝いて見えるけれど、木鼻以外は無塗装の無垢材のようである。たまたま立ち話をすることが出来た設計から工事まで請け負った岩手県の宮大工専門施工業者の総責任者の話によると、この黄金色は5年間ほどはもつけれど、その後は次第に黒く古びていって寺社仏閣でよく目にする、あの古色蒼然たる色合いに染まっていくそうである。

建築には1年以上を要するそうだが、その前に2〜3年かけて岩手県で建築資材をすべて準備し、それを終えたら現地で三重塔を一度組み立てるそうである。そしてこの一度組み立て設計通りであるかどうかを確認し、様々な細かい微調整を終えたら三重塔を解体し、それから指定された場所に運んで実際に建築することになるというから驚きである。

つまり、このような一度試しに作り上げ、これを解体し、改めて本格建築することが出来るということは、釘をほとんど使わないということであり、これこそ日本建築の醍醐味である「接ぎ手(つぎて)」や「仕口(しくち)」という、日本古来からの木材を組み合わせる伝統技法を駆使しているからこそ成せる技ということが理解できるのだ。

ちなみに建築費はどの位かかるものかをその設計をした総責任者らしき人に質問してみたところ、正式な金額は自分には分からないという前提だっだのだが、一般的には一層で1億円、土台などの関連工事費1億円を含めて、三重塔を建てるにはほぼ4億円ほどが必要だと言われていると教えてくれた。

三重塔は九州ではこれまで二つしかなく、福岡県みやま市瀬高町にある天台宗清水寺は天保7年(1836年)に約14年間の歳月をかけて完成した三重塔があり、塔の入仏式は天保15年11月23日に柳川藩内の僧侶全員を集めて盛大に催され、総費用250両を使ったといわれている。これは古代建築として九州最古のものであり、昭和32年に福岡県重要文化財となっている。もう一つは、福岡県京都郡みやこ町にある国分寺跡にあり、奈良時代に建てられれ、その後焼失して明治28年に再建され、昭和62年に修復工事された三重塔がある。しかし寺そのものはなく国分寺跡となっているようで、そこに三重塔だけは存在しているようであり、五重塔は計算から除外するとして正法寺三重塔はこれに次いで九州では三番目となると考えて良いだろう。

筆者はもともと日曜大工が趣味で色んなことを自分でやるのだが、ちょうど正法寺三重塔が建築され始めた時期とコロナ禍がほぼ同時期であり、筆者も本来の水産コンサルタントの仕事がめっきり減って暇になり、暇を活用して御影石の露天風呂作りを手がけることになり、約1年がかりでこれは今年3月に完成した。ところがその後も仕事の暇は続き、今度はその暇な時間を築43年の母屋の修復に費やすことにした。これはなかなか手強くてまだ終わりが見えるところまでは至っていないが、色々と手がける内に宮大工の仕事の奥深さを感じることになっていった。

例えば、二軒(ふたのき)である。由緒ある寺社仏閣は基本的に軒先が二軒となっていて、もちろん正法寺三重塔もそうなっているが、実は弊社の建物も全てではないものの、主立った場所は以下の画像のように二軒となっているのである。

縁側上部の二軒   玄関の二軒(現在修復の途中)

 

他にも色々とあるのだが、ここではそのことにこれ以上深入りしないことにする。ようするに今回は伊勢志摩だけではなく京都・奈良へも足を伸ばして、日本建築の基礎となる古建築の博物館とも呼ばれている法隆寺などを訪ね、本物に接して色々学んでみたいと思ったのである。


ここで読者の皆さんに予めお断りを申し上げておかなければならない。今月号に関して言えることは、今回の旅における様々な計算違いの連続によって、この先も魚のことを扱う FISH FOOD TIMES らしくない記事内容が続くことになることである。魚のことしかご興味がなければ時間の無駄になるかもしれないので、これ以降読まれることは中止されることをお勧めしたいが、もし筆者の行き当たりばったり旅行記に多少ともご興味があれば以後も読み進めてほしい。

京都

10月16日(土)17時に新門司港発のフェリーになんとか乗船することができて、翌朝5時30分過ぎには大阪南港に上陸した。フェリーの部屋はトラックドライバー専用のドライバーズルームというものであり、行きの「フェリーきょうと」は旧式タイプで、2段ベッドがあり、上下に上げ下ろしできる遮光ロールスクリーンになっていて、テレビも備えられているのだが、それはある程度プライベートは確保されているけれど、まあカプセルホテルのレベルだと想像してもらえば良い。

しかし、帰りに乗船した「フェリーきたきゅうしゅう」は、まだ2020年に就航したばかりの出来たてホヤホヤの最新式であり、同じドライバーズルームでも個室タイプで鍵がかかるようになっており、テレビだけでなく机と椅子も備えられていて、バスルームのないホテルのシングルタイプ狭小版といった感じだった。ハイラックスは5m超6m未満なので片道35,200円だが、帰りは20%割引が適用されて28,160円となり、往復合計63,360円だから片道は31,680円となる。その片道だけでも、ハイラックスで自走して燃料代と高速料金を払い、ホテルに宿泊する費用などを想定してみると、このほうがはるかに安いことが計算できる。安いだけではなく、一人用ベッドでぐっすり眠り、目が覚めたら大阪に到着しているということは運転での疲れもなく、車で九州と関西を移動する方法としては快適そのものの手段である。

この日は京都に直行し、寺社仏閣を出来るだけ多く訪問することを予定していた。そのために、トラキャン積みのハイラックスをどこかに預け、電動自転車を降ろして京都の町を行動することにしていたが、預け先はまだ決めていなかった。ネットや本で下調べはしていたので、京都市右京区にあるRVパーク京都中央に電話をしたところ空きはあるという返事だった。

9時過ぎには到着し、翌日まで1泊の手続きをした。チェックインは13時からでチェックアウトは12時までとなっており、基本料金キャンパー1台3,300円、時間延長が1時間300円である。しかし筆者は9時半のアーリーチェックインであることと、電源代1,000円、風呂代200円などを含めると、合計5,280円となり、車中泊にしては結構な金額となってしまった。

しかし、そもそも長さも幅も普通乗用車向けに作られている街中のパーキングにハイラックスキャンパーは駐車ができないのである。半日一晩を駐車して、宿泊も出来て、風呂にも入れるのであれば、これでもコストパフォーマンスは高いと計算できるのだ。

早速電動自転車Hurryerをステップから降ろして京都の町を動いてみることにした。ところが、既にトラキャンで問題が発覚していて、それに対処する方法を執っておかなければならなかった。それは今回新たに購入した105Aのディープサイクルバッテリーが機能しなかったのだ。トラキャンの中にはHONDA 16i というエンジン発電機も積んでいったが、エンジンをかけてプラグにつなぐとストンとエンジン停止してしまった。実はこの発電機が80Ahまでしか対応しておらず、105Ahのバッテリーを備えたキャンパーにつなぐと機能オーバーでエンジンが自動停止するようになっているのである。

そんな無理をした結果、12Vを100Vに変換するコンバーターも壊れてしまったようで、100V交流電源につないだときしか冷蔵庫も機能しなくなってしまったのだった。

このため、水タンクからの水を蛇口に取り込むことが出来ず、今後の旅のために持参したガスボンベタイプコンロの予備ボンベやキャンプ用ご飯などを購入しなければならないことになっていた。そのために先ずは京都駅近くのヨドバシカメラ京都内にある石井スポーツへ向かった。

Panasonic Hurryerは力強くペダルをアシストしてくれるので、グイグイとスピードを上げることが出来て快適な移動手段であることを再認識することになった。ヨドバシカメラまで約5q30分ほどかかり、約5qの距離をiPhoneでGoogle map のナビに従いながら約15分ほどの時間で移動できた。そして必要な材料に4,163円の出費をすることになった。

それから、やっと京都観光ができることになり、最初に西本願寺に向かうことにした。京都駅から西本願寺までは約2qでHurryerに乗って15分ほどかかった。

この建物は竜虎殿という書院であり、西本願寺で主役の御影堂(ごえいどう)から外れた場所にあり、中には入れなかったけれど、筆者には今回の目的からするとここは観光客も少なくじっくり観察することが出来た。

そして御影堂でのお参りである。その煌びやかで壮観たる趣に恐れ入りながらお参りを済ませた。

次の訪問地は大徳寺だった。大徳寺は古建築のことを知るために購入していた「ここが見どころ! 古建築入門」という本に大徳寺のことが記されていたので、京都で訪問する寺の一つとしていたのだ。大徳寺までの距離は約6qで40分以上を要したと思うが、あいにくの雨模様となり準備していたカッパを着ることになった。

 

 

大徳寺山門は入母屋造り本瓦葺で朱塗りの大きな門であり、見事な二軒(ふたのき)が施されていた。臨済宗大徳寺派大徳寺の山内には以下の図のように20を超える幾つもの寺がある。

その中でも最も古くて中心となっているのが龍源院である。この寺で有名なのは枯山水庭園である。

枯山水と言えば最も有名なのは竜安寺かもしれないが、この龍源院の枯山水と竜安寺は似ていても、色々と違うということがこの後に金閣寺を経て竜安寺を訪問し理解することが出来た。

これが竜安寺の方丈庭園(石庭)であるが、こちらの方が一回り大きく、空間が目立ち、玉砂利も龍源院より小さく、より繊細な感じなのである。龍源院は他にも小さな枯山水庭園が二つあり、玉砂利が少し大きい分、骨太で変化に富んでいるのが龍源院の枯山水だと感じた。

ちなみに、以下の画像は昨年から今年にかけて筆者が自分自身でつくった露天風呂の脇にある、小さな枯山水風の坪庭である。

この坪庭に満天星とも称されるドウダンツツジを1本残していて、この樹木は春には釣り鐘型の白い花を咲かせ、秋から冬にかけては葉っぱが赤く色づくので、露天風呂の中で季節感を感じられる仕掛けである。

龍源院の次は金閣寺に向かった。大徳寺山門から金閣寺まではカーブ道を上り下りしながら2q弱で10分ほどで到着した。金閣寺に着くと、これまでと様子が一変したのは観光客の多さである。特に修学旅行生の団体が目立ち、一般ツアー観光客も増え、これまでのような静かな寺巡りは出来なくなってしまった。

あまりに騒々しいので、金閣寺だけの限定販売とされている和三盆のお菓子をお土産に買い、早々に退散することにして、次の竜安寺に向かった。

竜安寺へは、これまたカーブした一本道であり、1.5q弱が10分もかからずに到着した。竜安寺は既に17時頃になっていて閉山が間近だったので団体の観光客はなく、少人数の観光客ばかりでホッとすることになった。枯山水のことは既に述べたので説明を省くとして、筆者が竜安寺でもう一つ気になったのは以下の画像の蹲踞(つくばい)だった。

水戸黄門が寄進したという蹲踞には、水が落ちて溜まる四角い部分を口の字に見立て、吾唯知足(ワレタダタルコトヲシル)が記されている。

なぜ蹲踞に興味を持ったかというと、筆者は次の創作目標を蹲踞としているからだ。

上画像のように、母屋の道路側となる板塀の角に石臼を置くことまでは終えている。しかしその先は全く進んでいなくて、出来れば鹿威し(ししおどし)式にして、音も楽しみたいと考えているが、いつ着手できるのか全く未知数なのだ。

京都の1日目は竜安寺で終了し、RVパーク京都中央に戻ることにした。約5.5qの距離を途中でスーパーの阪急オアシスに立ち寄って、リンゴやミカン、ヨーグルトなどを購入しながら30分ほどで帰り着いた。この日電動自転車で動いた距離は約22qほどであり、自分としては充分納得のいく行程と内容だったので、夜は自分へのご褒美で美味しい魚を食べるぞと張り切っていた。

19時前に風呂にも入ってサッパリした後、近くに歩いて行って和風の店に入ろうとすると、19時30分にオーダーストップになりますと伝えられたのだ。そして別の店でも同じであり、次の店もダメだった。結局19時過ぎに食事目的で入店できる店はなく、本当に泣く泣くの心境で近くのコンビニでビールと肴になるものを買って、トラキャンの中のテーブルで寂しい夕食となったのである。

この事態は翌日の奈良を除き、翌々日の津市、その次の志摩でも似たようなことになり、これがまさに大きな計算違いとなったのだった。


京都から奈良へ

2日目は京都に昼まで滞在し、次の奈良に向かうことにした。朝一番にRVパーク京都中央からは5.5qの距離がある清水寺に向かった。清水寺へは電動自転車で40分ほどの時間がかかったが、8時30分から開山していて、8時35分に到着した筆者はこの日の最も早い訪問者だったようだ。

朝日に輝いていた三重塔は二軒の長さが翼を広げたように広く、高さは31mもあり、三重塔としては日本最大級ということである。全体が朱に塗られていて正法寺三重塔とはずいぶん雰囲気が違うと感じた。清水の舞台がある檜皮葺(ひわだぶき)本堂とは下画像のような距離があり、雰囲気もまったく違っていて好対照の面白さがあると感じた。

清水寺の名称由来となった音羽の滝から流れている水は、新型コロナウイルスの影響で現在は柄杓で飲めないとの情報があったが、朝早くて誰もいなく、お賽銭を投じて勝手に柄杓で水を飲み終え、出口に向かい始めたところ、管理所のようなところの扉がガラガラと開いて人が顔を出してヒヤリとしたのだった。こうして清水寺ではまだ観光客も少ない静かな散策を1時間ほどを楽しみ、そのまま来たときと同じ40分ほどの時間をかけてRVパーク京都中央に戻った。

11時過ぎには奈良に向けて出発した。この日はRVパーク薬師の里という場所が当日にも拘わらず何の問題もなく予約することができた。ところが、ナビの案内通りの場所に行ってみると、野球のグランドが4面は確保できるような広大な野原のようなところにゴロゴロと砂利が転がっているだけであり、それらしきものは何もないのである。これは大変なことになったと思って、ネットで検索した別のRVパークに行ってみると、今度は無茶苦茶狭くて汚くて、これはもっと酷いと判断し、結局は元々予定していたRVパーク薬師の里に戻り電話をしてみた。すると電話先のオーナーは4番という場所を用意しているので、料金の3,000円を青いポストに入れて、後は勝手に使ってくれということだった。

4番の場所に行くと電源があり、シンクと蛇口もあり、ネットから拝借した上の画像のような感じではあったけれど、籐椅子はアチコチが壊れ使えず、野ざらしで荒れ放題という感じだった。離れた場所に簡易トイレもあったようだが敢えて使わず、小便は駐車スペースの直ぐ後ろの野原に立ちションをして済ませ、大便は翌日別の場所に行って済ませた。そのRVパークの管理人とは翌朝まで顔を合わせることもなかった。

奈良では第一に法隆寺、次に東大寺、そして唐招提寺が自分としては訪問の優先順位だった。しかしRVパーク薬師の里から至近距離に唐招提寺があったので、奈良の1日目午後は唐招提寺に行くことにした。約2qと直ぐの距離にあったのだが、色々と準備などをやっている内に時間が経過し、唐招提寺に着いたのは16時半頃になっていて、閉山は17時ですけど入りますかと尋ねられることになってしまった。30分でも仕方がないと入って追い出されるようにして寺を出たのだった。

上画像は8世紀後半に建てられたとされる国宝の金堂である。

色々とゆっくり見学する余裕はなかったが、唐招提寺金堂の二軒は上画像のように、これまでの京都の寺のものとはだいぶ違っていると感じることになった。ゆっくり見学する余裕もなく唐招提寺を出たが、至近距離に薬師寺があることが分かり、中には入れないことは承知していたけれど、電動自転車で薬師寺に向かい下画像のように薬師寺の外観だけは確認したのだった。


奈良の夜の収穫

前日の京都の夜に手痛い失敗をしていたので、この日は同じ過ちを繰り返さないぞと心に決めていた。だから17時を過ぎてから、早くも夕食に適切な場所を探し始めたのである。奈良市のなかで多少賑わいを感じるところへ電動自転車で向かい、ウロウロして適切な店はないかと探し始めた。すると、面白い店が見つかったので入ってみることにした。それが以下の画像の「大紀水産 街のみなと奈良店」だった。

画像のように大紀水産の魚売場があり、その横に併設して「街のみなと食堂」と称した魚惣菜を売りとするレストランがあったのだ。魚売場の方には目もくれず食堂に入ったのは、筆者の仕事柄からすると問題かもしれないが、それだけ前日夜の後遺症が尾を引いていたのである。

自分でお好みの惣菜をとってお金を払い、自分でテーブルに運ぶセルフサービス方式なのだが、これが何とも安いのである。

ビール中瓶は普通に500円するけれど、刺身盛り合わせが300円、アジ南蛮漬けが100円、マグロ煮付け100円、これらが合計で1,045円で済むのである。味付けも美味しく、男性二人の従業員の愛想も良く、結局は100円惣菜を2皿追加し、瓶ビールを2本追加したのだった。

そして実に面白いことに、これは奇遇としか言いようのないことだが、筆者が座っていたテーブルの真後ろに男性3人組がやってきて、食事をせず仕事の打合せを始めたのである。話の内容は聞き取れなかったが、一番年配の偉そうな人がしきりに「700円、700円・・・」と繰り返しているのだけは耳に残ることになった。

二人の従業員の内の一人が、偉そうな人に向けて「会長・・・!」と呼びかけ話をしたのを見て、これはもしかすると大紀水産の会長なのかなと推測することになった。そして三人の打合せが終わって、そこからいなくなった後、その推測の真偽を年配従業員に質問してみると、その人は間違いなく佐伯保信会長自身だったのだ。その人のことを偉そうなと表現したけれど、偉そうにふんぞり返っているという意味ではなく、明らかに一番年配だったので偉そうに見えただけで、話しぶりは上から目線の威張った口の利き方ではないと感じた。

FISH FOOD TIMESの9月号で筆者は東信水産の方向性に疑問を投げかけていたけれど、大紀水産の方向性は「街のみなと奈良店」を見る限り、筆者の考える方向性に近いものがあると感じた。筆者は関東では角上魚類の方向性に賛同できるものを感じているが、関西では今回大紀水産奈良店を見たことで、その考え方に同感できるものがあると思った。このことは今月号ではなく、改めて別の機会にテーマを設け、深く言及してみたいと思う。この日の自転車移動距離は約20qだった。


法隆寺、東大寺を経て津市へ

出発から4日目となる19日は奈良で今回の旅のメイン目的地の一つを訪ねることになった。朝8時前にRVパーク薬師の里を出発し、法隆寺まで約10qを電動自転車で1時間ほどかけて移動した。動いてみて分かったのは、奈良はサイクリングロードがよく整備されており、自動車との兼用部分もあるけれど自転車専用も長く確保されていて、自転車に優しい街だということだった。しかし筆者にとって、朝一番から10qを超える距離を自転車で移動するというのはなかなかの負担であり、爽快感はあったものの一働きしたという手応えがあった。

 

今回の旅で一番訪ねてみたかった法隆寺に9時頃には到着した。法隆寺は「日本建築史の博物館」とも称され、金堂や五重塔、夢殿などは世界最古の木造建築物などがあり、古建築のことを学ぶには最高の教材となる寺なのである。

以上三つの建物が法隆寺を代表する国宝である。西暦607年に創建された世界最古の木造建築物は1400年以上経てもこのようにしっかりした状態で現存している。いっぽう弊社の建物はまだ43年しか経っていないのだがアチコチに経年劣化症状がでてきている。

法隆寺は670年に火災に遭って消失したという日本書紀の記録があり、これについては色々と学術論争があったようだが、屋根裏に使われている木材を1,100万画素の高精度デジタルカメラで撮影し分析した結果、火災の後に7世紀後半までには再建されたものではないかというのが現在の定説になっているようだ。建築後の経過年数としては約100年ほど短くなる計算になるが、それでも木造建築が1300年経った現在も残っているのだから凄いものだ。

法隆寺には11時近くまでの2時間ほど滞在し、もう今度はいつ来ることが出来るか分からないという思いで隅から隅まで見学し、自分なりに満足することが出来た。法隆寺を訪問するのは人生初めてではなく、確か2回目のはずだが以前の記憶はほとんどなく、人間はある場面に接した時、どんな関心があり、どういう点に興味を持つかということによって、その印象や記憶は随分違ったものになるということを再認識することになった。

心地よい満足感を抱えて、次の東大寺にむけて出発した。 この日は宿泊地から法隆寺がある南西方向に向けて、既に10qを自転車で移動していたが、今度は出発地の東北方向へ逆戻りして通り越し18qほどを移動しなければならないのだ。その移動方向の東大寺のルート上に古建築の本で紹介されていた興福寺があったので、ここにも立ち寄ることにした。

興福寺は春日大社に接した春日公園のなかにあり、修学旅行生や一般ツアーの団体がゾロゾロ歩いており、奈良観光では有名な鹿もアチコチにいて、まさに奈良観光のイメージそのものの場所だった。筆者はこういう人が多すぎて騒がしい場所は避けたい気持ちが強いので、五重塔だけを見学してサッサと東大寺方向へ向かった。このため人混みから退散する気持ちが強すぎて興福寺では写真を撮るのも忘れてしまった。

以下の画像は東大寺である。

ここで読者の皆さんに古建築の専門用語を使って説明してもあまり意味がないと思うので、東大寺は何もかもが木造建築物としては桁外れに大きいということだけは、筆者の感想として述べておきたい。

東大寺を後にして、RVパーク薬師の里への8qを40分ほどかけて戻った。キャンパーに戻ってからの仕事は今夜の宿探しである。翌日は三重県の伊勢神宮参りと決めていたけれど、その近くに適切なRVパークを見つけることが出来なかった。そのため、少し遠回りになるが気軽に利用できそうなRVパークが三重県津市にあったので電話をしてみると、空きがあるということなのでこの日はそこに宿泊することにした。

奈良市から津市まで約100kmの道のりだったが、約2時間半かけて目的の「RVパーク津う」に到着した時は既に18時を過ぎていてその場所はもう真っ暗だった。下はくるま旅ホームページから拝借した画像である。前日のRVパーク薬師の里と同じように砂利の敷地だったが、しっかり平らに整地されており、砂利の大きさも小さく揃っていて、駐車スペースは整然と区分けされていた。その大きさも、キャンパー10台以上が余裕で駐められる幅と長さがあり、住宅街に隣接している割りには広々としていて、使いやすいところだった。

ここもポストに料金を入れる方式だったが、電源付きで2,000円、電源無しなら1,500円と格安だった。しかも、水道シンクはもちろんのこと、ウォシュレット付き便所、更には風呂まで使い放題なのである。この圧倒的なコストパフォーマンスには驚くことになった。

この日は既に19時近くになっていたので、京都の夜のような無駄足を避け、キャンパー車内でビールとつまみの寂しい夕食とすることにした。この日の宿泊者は筆者だけだったようで、周りは騒がしくもなく奈良で動き回った疲れを取るには最高の場所となったのだった。この日の自転車走行距離は約40qだった。


伊勢・志摩

20日の朝は、キャンパーで本当にぐっすり眠り心地よい朝を迎えていた、7時頃から朝風呂に入って髪を洗い、色々とサッパリした後に出発準備をしていると、男性二人連れが私に挨拶をしてこられたので話を始めてみると、このRVパークのオーナー親子のようだった。筆者はお二人にここはコストパフォーマンスの高い、素晴らしい施設だとお礼を言い、伊勢神宮でキャンピングカーを駐車するにはどうすれば良いかなどを質問すると、持っている情報をこと細かく説明をしてくれた。その上に、この日の宿泊する予定の志摩地方の情報なども色々と提供してくれて本当に大助かりだった。今回そこで支払ったのは2,000円ポッキリである、申し訳ないくらい有り難い思いをさせてもらったのだった。

9時過ぎには「RVパーク津う」を出発した。約60qほどの距離を1時間半かけて伊勢神宮に到着した。情報をいただいていたとおりに伊勢市営駐車場の内宮B5に入り、アドバイスに従って一番奥に駐車した。周りには1台の車もなく、何の気兼ねもなく自由に自転車の上げ下ろしなどの作業をすることが出来た。

駐車したのは内宮近くなのだが、伊勢参りの原則通りに外宮からお参りすることにして、自転車で外宮へと向かった。約4qを20分ほどかけて外宮に到着した。内宮と外宮は下の案内板のような位置関係にあり、移動に徒歩では長すぎるので、ほとんどの人が車やバスを利用しているが筆者は自転車で往復した。

 

画像は上が外宮、下が内宮であり、塀の中の本殿は撮影禁止なのでこれが限界である。神明造りの社殿は1400年を経た法隆寺とは大きく違い、20年ごとに社殿が作り替えられる。直近では2013年に執りおこなわれ、まだ8年しか経っていない新しい建物である。作り変えられるのは社殿だけではなく、鳥居、橋、板塀、装束などにも及び、何百億円もの資金を投じて新調される。

式年遷宮をおこなうのは、檜の白木を地面に突き刺した掘立柱で作られているためであり、礎石がないので風雨にさらされ老朽化しやすく、20年に一度の間隔で作り変えるということである。本来は総檜造りであるはずだが、2013年式年遷宮では適切な大きさの檜が足りず、一部に翌檜(アスナロ)が使われたということだ。それもそのはずだと納得するくらい、境内のどこもかしこもが、檜、檜、檜・・・と、あらゆる所に檜の木材だけが使われているのが実に印象的だった。前日に1400年を経た法隆寺を見学し、この日はまだ8年しか経っていない伊勢神宮を見るというのは何とも激しい好対照なこととなった。

外宮から内宮を経て昼食は伊勢うどんと決めていた。

これは、今で言う「ぶっかけうどん」であり、お汁はほとんどなく黒く濃厚な汁を絡めて食べるのだが、見た目ほど塩辛くはなく、太い麺は柔らかく、讃岐うどんのように固くない柔らかい博多うどんを食べ慣れている筆者には好ましい味だと感じた。

この店はおかげ横丁の中にあったが、通りは10月20日(水)の時点で外国人不在の中で以下のような賑わいを取り戻していた。

筆者もお伊勢参りのお土産をこの通りで購入したのだが、その通りに面白い店が一軒あったので読者の皆さんに紹介しておこう。

魚の干物専門の販売店であり、店頭には客寄せパンダならぬサメの干物が飾ってあり、店内にはこの他にも様々な魚の干物が所狭しと売り物としてではなく装飾物として飾ってあった。そして面白かったのは、店頭のど真ん中で男性が干物を焼いていて、その上に大きなパイプがあって、送風機で道路の方に風を送っていた。ウナギ蒲焼きの臭いを嗅がせて食欲をそそるように、干物を焼いた良い臭いで客を寄せ付けようという仕掛けである。そして、客が中を見ようとすると店頭の干物焼きを担当するおじさんが、直ぐに焼いたばかりの干物を試食として差し出すのである。その臭いと試食で釣られた客が買い物をしていくという面白いシズル感に満ちた商売方法だった。読者の皆さんも魚の干物を販売する際のヒントにしてみてはいかがだろうか。

15時前には内宮を後にしたが、それから今晩の宿探しである。この日は宿泊地に早めに到着して、10月から解禁となっているはずの伊勢エビを、どこか高級なところで豪勢にやるぞと張り切っていた。ところが、ハイラックストラキャンという制限があるので適当なところが全く見つからないのである。探す場所が伊勢市からはどんどん離れていって、結局決定したのは45qほど離れた志摩オートキャンプ場というところだった。この場所は筆者が願っているような店の存在を期待することは全くできないような場所にあり、結局ここしかないと決めてから、伊勢志摩地方で伊勢エビを食べるという目的は諦めることにしたのだった。

この日も夜はキャンパーの中でビールと惣菜を一人で食べたのだった。この日の自転車走行距離は外宮と内宮の往復で約8qだった。


熊野那智大社、そしてクジラの太地町

志摩オートキャンプ場はゲートがあり、夜は外に出られない仕組みになっていて、朝も8時にしか開門しないので、21日の朝は8時までに出発の準備を済ませ、8時を回って直ぐにキャンプ場を出発した。この日は三重県から和歌山県に向かい、最初にそこから約200qも離れている熊野那智大社を訪ねることにしていたからである。

今回の旅で初めて高速道路を使うことになり紀勢自動車道を使った。そのほとんどが無料通行区間となっていて、高速料金で出費がかさばることはなかったけれど、そのほとんどが対面通行の一車線であり、あまり一般的な高速道路という感じではなかった。途中で休憩や昼食などを挟みながら移動したので、熊野那智大社に到着したのは13時頃になった。

途中のSAで購入した昼食が下画像の「サンマ寿司」である。紀州名物となっていて、読者の方には何故サンマが紀州名物なのかと不思議に思われる方もいらっしゃるのではないかと思う。筆者も30年ほど前に水産コンサルタントの仕事で関西のスーパーに出向き、最初の頃は魚売場にサンマの開きなどサンマ商品が豊富にあることを不思議に思ったものだった。

調べてみると、関西の中でも和歌山などで盛んにサンマが食べられている理由は、北方の海から回遊してきたサンマの回遊南限が紀伊半島沖にあり、昔はサンマが多く漁獲されていたからだった。このためサンマは南紀地方の地域を代表する魚の一つとして大阪や京都にも送られ、定着していったものと思われる。

熊野那智大社には途中から山道をクネクネと登りながら、やっと13時過ぎに頃那智大社に到着した。一番奥の無料駐車場にハイラックストラキャンを駐め参道入り口に向かうと、いきなり社殿の場所まで467段もあるという長い階段が待っていた。この階段は急がずにエッチラオッチラと登っていくものだということなのでゆっくりと時間をかけて登っていった。

長い階段を辿り着いた先に現れたのが、熊野大社本殿である。本殿は熊野造りという特別なもので、切妻造りの妻入りで、正面に庇を設け、四方に縁をめぐらせた方式である。

お参りを済ませ階段を降り始めたが、登る途中で気になった店があったので立ち寄ってみることにした。

この画像の山口光峯堂という店は、那智黒石を原料として主に硯を手作りしている店であり、硯を皇室にも献上している由緒ある店のようだった。なぜこの店が気になったかと言えば、妻が今回の旅行に同行しない理由は書道の昇段試験が控えているからであり、妻がそれだけ打ち込んでいる書道に役立つお土産は那智黒石の硯かなと思いついたのである。

店主と話してみると、機械彫りと手彫りでは倍くらい値段が違うということであり、手彫りとなると少し覚悟しなければならない売価がついているのだ。しかし、どうせなら後で後悔しないように手彫りを購入することにして相談したところ、この店で一番のおすすめ品というのを紹介してくれた。

店主から機械彫りと手彫りはここが違うとの説明を受け、指で触り、墨を擦ってみてくださいと言われるので、実際に墨を擦ってみると表面が実に滑らかであり、長く使っていてもほとんどまったくと言ってよいほど減らないということだった。硯の裏には店主自身の銘が彫ってあり、硯にウン万円は高いと感じたが、旅の思い出として今回の旅の中では一番の高い買い物をしたのだった。特に驚いたのは、購入した手彫りの硯は大きさが物足りなくなったら、大小の差額分を出費することでもっと大きいものと交換してくれるというのだ。持ち込んでくれさえすれば、どれだけ時間が経ってもそのことは可能だということである。そうすることで、那智黒石の硯が長く墨を擦っても簡単にはすり減らない証をしているのだと感じた。

この後、那智の滝を見物し三重塔を見るために、もう一度裏道を通ってわざわざ登って行ったのだが、その三重塔は木造ではなくコンクリート造りのビルと同じであり、その中心となるはずの「芯柱」が入っていない見学用タワーだった。言わば三重塔に似せた偽物であり、これにはガッカリして15時過ぎに今晩の宿泊地を目指すことにした。

この日の宿泊は、高速道路のSAで休憩した時に予約していた那智勝浦町の「TEMPLE CAMP 大泰寺」だった。熊野那智大社からは30分以内に着くはずなので、途中で太地町のクジラ博物館に立ち寄ることにしていた。

これが「太地町立くじらの博物館」の外観である。内部は以下のようにクジラの巨大模型や様々なクジラ関連資料が揃えられている。

資料の中には、太地町が位置する地理的な環境と昔からの食習慣なども展示しているものがあり、クジラだけでなく国際的には批判的意見も多いイルカ漁にも触れられていた。

FISH FOOD TIMES では平成28年4月号 No.148 でミンククジラをテーマとして扱い、同じようなクジラ博物館がある長崎県平戸市生月町の博物館「島の館」を訪問したことを記していた。筆者はそのなかでクジラの存在とその位置づけについて考え方を以下のように記していた。

昔鯨油を取るためだけにクジラを殺していた欧米諸国が、今度は「クジラを殺すのは可哀想」という感情論で日本の捕鯨を禁止させるという「不条理な論理の飛躍」にはとてもついていけるものではない。 こういった飛躍した論理をいつまでも押し通し続けられるはずはなく、小松氏が述べられているように世界もいつかは陸上の生物だけでは解決できないほどの食料危機が迫ってくると、全く違った論理の展開で自分たちの正当性を主張し、人類の食料源としてクジラを捕獲せざるを得ないようになるのではないかと思われる。 その時がいつになるのか分からないが、その時のためにも日本は歴史あるクジラの食文化を絶やさないようにしていかなければならないと考える。 現在日本においてクジラを珍味として高級品扱いするような今の流れは変えていくべきであり、そのためには理不尽な論理を振り回す欧米諸国のワガママを黙って聞くだけではなく、日本は歴史あるクジラの食文化を持続するためにも商業捕鯨の復活が実現するよう努力していくべきである。

 

このように記した筆者の商業捕鯨復活への願いは、日本が2019年にIWC(国際捕鯨委員会)を脱退することによって商業捕鯨復活が実現した。その後、クジラ肉はどんどん販売されるようになっているかと言えば、クジラの生肉が魚売場に入荷することは稀であり、以前と大きな変化はないようだと感じている。クジラを食べたくても、いつでも直ぐに食べられる、といった環境はまだ復活していないのである。

この日はクジラ料理を食べるのも楽しみにしていたので、博物館の職員らしき人にそのための適切な店を教えてほしいを尋ねた。しかし、その答えは又しても今の環境ではそれを期待しても無理、という例の冷たいガッカリする言葉だった。クジラもダメかと意気消沈して、今晩の食事を手に入れるために漁協スーパーという店に入った。店内をレジカゴを持ってウロウロしていると、ヨソ者の私が珍しかったらしく肉売場のおじさんが私をじっと目で追いかけていたので、筆者はダメ元で「肉ではないんですが、クジラを食べさせてくれる店を知りませんか?」とその人に質問したところ、やはり「今時はね〜、難しいね〜」と案の定の答だった。完全に諦めて、ビールなどをカゴに入れていると、肉売場のおじさんが私を追いかけてきて「一つだけ、時間を気にしなくて良い店があるけど行ってみる?」と言ってくれたので、わたしはもちろんお願いしますと答えたのだった。

教えられて入った店はSIPPOというカフェで、店内にはライブ演奏の舞台が備えられていて、おしゃれな感じだった。注文して運ばれてきたクジラ料理は以下の画像である。

Sippoのクジラ料理
クジラ刺身3点盛り 4,000円 クジラの骨はぎ 600円
クジラのうでもの 600円 ゴンドウクジラの干物 600円

 

クジラの刺身はゴンドウクジラの尾の身、ミンククジラの赤身と皮、ミンククジラのウネスの盛り合わせ、クジラのうでものは内臓を茹でて醤油で味付けしたもの、クジラの骨はぎはゴンドウクジラの骨周りの肉を削って茹でて醤油で味付けしたもの、ゴンドウクジラの干物は塩干しを塩抜きしただけのものだった。

味付けは刺身以外は全て塩辛く、特に干物はメニューに「お酒のあてに」との但し書きがあったけれど、とても酒の肴にすることは難しく、他はノンアルコールビールと一緒に何とか食べた終えたものの、干物だけは残した。そしてこれを平らげるために、ご飯と味噌汁を別に頼むことですべてを完食したのだった。 残念ながら、クジラ料理としてはとても満足できるとは言えないレベルだった。

以前、長崎県平戸市生月島の割烹旅館「山屋」で食べたクジラ料理の「クジラざんまい」コースは一人が4,000円だったけれど、7種の料理には刺身、にぎり鮨、鍋まで含まれていたので、この店で支払った6,900円と比較すると、そちらの方が間違いなく美味しいだけでなく価値もあったと思った。

とりあえず、この日の夜はまともな食事にありつけたのでこの日の宿泊先TEMPLE CAMP 大泰寺に向けて出発した。

このお寺は比叡山の開祖最澄が1200年前に開いた薬師霊場であり、天台宗として始まったが徳川時代に紀州が徳川御三家となってから、臨済宗に改宗したという変わった歴史をもつ寺である。その寺の敷地内を下の方へ下り、大きく拡がった砂利を敷き詰めた空間がキャンプ施設として使われている。料金は電源付き3,000円であり、風呂は200円プラスすると入れる。筆者はまだ檜の匂いが抜けていない新しくて広い風呂も利用したので3,200円を支払った。

翌日の朝6時半という時間の出発を聞き入れてくれた和尚さんには、出発間際にお願いして本堂と薬師堂の2ヶ所お参りをさせてもらったが、その理由は臨済宗のお寺ということだったからである。筆者は大学時代に、毎年12月になると臨済宗の大本山である鎌倉円覚寺に行き、1週間の「冬の学生大接心」という行事に参加し座禅を組んでいた経験があった。そういうことから、般若心経のお経を読める自分の気持ちとしては臨済宗に非常に親近感があるからだった。50年前の若い時のことを和尚さんに話すと、そのことをとても面白がってくれた。


高野山

さて、ほとんど何の予定を組まないで行き当たりばったりで旅してきた今回の旅も最終日を迎えることにして、名門大洋フェリーの門司行き19時50分の後便を予約した。最終日は南紀白浜の「とれとれ市場」を経由して高野山に行き、それから大阪に向かい帰途につくことにした。

南紀白浜のとれとれ市場には宿泊地から約100qを2時間弱で到着した。

店外と店内はこんな様子だった。そして、とうとう伊勢エビを見つけたのである。

これを購入し、料理をしてもらって、目的を果たせる・・・、はずだった。しかし、何と言うことか、料理したものが食べられる飲食スペースは10時からスタートするということなのだ。10時まで1時間弱待たなければならないというのは、あまりにも時間の無駄であり、行程上そんな余裕はないのである。結局はこれも諦めることにして、高野山に向かうことにした。

この伊勢エビの姿造りは筆者が2007年に作成したものだ。とりあえず、読者の皆さんには筆者はこんなイメージを描いていたことを伝えておきたい。

高野山への道は険しい山岳道の連続だった。 とれとれ市場を9時30分には出発したけれど、約110qの山道をクネクネと移動して、標高約1,000m級の山々の中の開かれた盆地にある高野山駐車場に到着したのは12時を過ぎていた。

 

上の高野山マップは和歌山県観光協会のホームページを参照したもので、下の図は奥の院入り口の地図看板画像である。高野山とはこの地域全体のことで、高野山という山自体は存在していない。ここに117の寺院があって、一つの街となっている。広大な敷地には寺だけでなく、奥の院というこれまた広大な面積の墓地もあり、そこには皇室、公家、大名などの墓があり、戦国大名の墓の6割はあるといわれ、その数は20万を超えるそうである。そして、真新しい大きな墓もあり、それらはほとんど日本の大企業の供養塔であり、高野山に供養塔を建てることが出来ることは一流の証のような雰囲気であった。

なかでも奥の院で最高の位置づけにあるのは、開祖の空海(弘法大師)である。この御廟は一番奥にあり、撮影禁止なので画像はない。弘法大師はご存じのように不世出の能書家として知られており、書道をたしなむ人にとっては神様のような存在ではないかと思われる。

そうなると。那智黒石の硯から弘法大師となれば、これは因縁のようなもので、妻の書道昇段試験へとつながっているように感じた。そして、迷うことなく弘法大師のお札をお守りとして硯に添えることにして購入したのだった。

奥の院を経て金剛峯寺大主殿までは直線距離では2qほどだが、細道は曲がりくねっているので実際は3qくらいだろうか、徒歩ではやっと金剛峯寺に着いたかと思うほどの距離だった。

上の二枚の画像が金剛峯寺正門と大主殿である。今回の旅でこれまで多くの寺を見てきたけれど、この金剛峯寺には一風変わった設備が備えられているのに気づいた。

それは上画像のノイズを加えていない場所にある設備である。最初は何とも品のない無骨なものがあるものだと思った。しかし後で調べてみると、これは「天水桶(てんすいおけ)」という設備であることが分かった。金剛峯寺の屋根は瓦ではなく、檜の板を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっていて、火災が発生した時は火の粉が飛んで屋根に燃え移らないように、この桶に貯めていた雨水を屋根にまいて濡らしたり、消化をしたりする役割を担う消火設備なのである。右下にある梯子は天水桶まで登っていくためのものだというのも分かり、天水桶のことを理解すると梯子が存在する意味も納得することができた。

上画像の大主殿の大玄関は、昔天皇・皇族や高野山重職だけが出入りされたものということであり、虹梁の間の彫り物、堂々とした二軒、菱狭間模様の桟唐戸など、まさに見事な存在感を放っていた。

そして、いよいよ15時を過ぎてきたので、大阪南港へと帰途につくことにした。その前に金剛峯寺に行く途中に作務衣の製造販売をしているような店があったので、ここで自分へのお土産として作務衣を購入しようと思っていた。その店に入ると、店主の奥さんみたいな人が色々と見せてくれたのだが、実は小銭入れの中に1万円札が1枚しか入っていないのに気づいたのである。しかし、出してくれるのは1万円以上の品ばかりで、奥さんはお金がないならばということで出してくれた高野山高校の実習服も1万円を超えていたのだった。それまではバックパックを常に背負って、そこに財布も入れていたのに、この日に限ってバックパックはキャンパーに残してきていたのだった。このため結局作務衣を購入することは出来ず、今回の旅の記念となるものは手に入らなかった。

それから、ナビに大阪南港を記憶させ出発した。予定としては阪和道で泉佐野市、岸和田市、堺市を経由して2時間以内に大阪南港に到着するはずだった。ところが、途中で何かおかしいなと思う山道へナビに誘い込まれてしまったのである。暫くはナビを信じていたところ、山道を降りたところは何と奈良県五條市だったのだ。そしてナビは阪奈道に入って東大阪市へと向かわせ、大阪市の中央区に紛れ込むルートを執ってしまったのだった。

本来ならば遅くとも17時半には到着するはずが、どんどん遅れていった。渋滞にも巻き込まれることになり、フェリー乗り場に到着を推奨されている19時までに着くだろうかと心配になっていった。結局到着したのは18時45分頃であり、1時間半以上の余計な時間を要してしまった。

ハイラックストラキャンは、いつもより全長は伸びているし、横幅も拡がり、もちろん重量も増えている。トラキャン用に増設したエアサスは、重たくなった重量を尻下がりしないように支えてはくれる。しかしフワフワと乗り心地は良い反面、逆に上下の動きがあり、左右にも揺れが大きくなり、動きはカチッとせず不安定なのである。だから、急カーブでは非常に気を遣うし、道の段差やデゴボコにも気をつけなければならないので、普通の乗用車より何倍も神経を使うのだ。そんな何倍も気を遣う運転を急がなければ間に合わないという気持ちで3時間以上も休み無しで続けていると本当に疲れるのだ。大阪南港に無事到着した時は心から安堵したのだった。


旅の締め

今回の旅で活躍した電動自転車Panasonic Hurryerでの走行距離は約90qだった。奈良では1日に40qも走ったが、この日に限って朝の段階で充電が90%だったので、最後までバッテリーが持つかどうか心配したこともあった。しかしHurryerが力強くアシストしてくれる機動力にはとても助けられ、身体的な疲れがとても少なくて済んだ。

また、愛車ハイラックスは8日間で1,048qを走行したけれど、車旅としてはそれほど負担の大きい距離ではなく楽なものだった。このハイラックスの累計走行距離は、この旅の最終日にメーターは8万q台に入ってしまったが、98年式にしては圧倒的に走行距離は少ないと思う。毎年車検のたびに内部装置や外回りもしっかり手を加えメンテナンスしているので、全くノントラブルで見た目もピカピカである。既に製造から20年を超えているハイラックスがどれだけ頑強で優秀なのかアピールするのにも、この車は一役買っているのではないかと思う。

さて、本当に長々とした記事になってしまった今月号はどれだけの読者が最後の行まで読んでくれたであろうか。筆者自身もこんなに長くなるとは全く予想していなくて、こんなに長くなってしまったことに自分でも驚き反省もしている。

今年は旅を計画した段階から計算違いであり、旅をまとめた記事も計算違いになってしまった。読者の皆さんに申し訳ないと思うのは、今月号で魚のことにほとんど触れていないことである。旅を計画する段階から見通しが甘かったので、計算違いが頻発してこうなってしまった。この点何とかご勘弁願いたい。

しかし、本音のところ旅は何があるか分からないから面白いし、旅で起こした失敗というのがいつまでも心に残るものである。自分自身としては「あ〜、今回の旅も面白かったな〜・・・」という気持ちである。来月はしっかり魚のことを記したいと思うので、今月号に懲りず是非アクセスしてほしいものである。

<P.S.>最後までお読みくださった読者の皆さんへの限定情報

今回の旅で使用したトラキャンNoble Uを使用するのは今回で終わりにしようと考えています。なぜなら、72歳の体力的限界を感じたからです。そこでこのトラキャンNoble Uを処分しようと思います。新型ハイラックスがすごい人気を集めているのは承知しています。もしかすると、読者の中にはハイラックス所有者もいらっしゃるのではないかと思いますが、よろしければお譲りしたく思います。もちろんタダというわけにはいきませんので、現地に引き取りに来てくれる条件でご希望があれば「現状渡し」で、それなりの納得できる金額であればお渡しします。ご興味があり、詳細を知りたいという場合は電話でなく、メールでご連絡ください。出来る限り詳細の情報を添付ファイルで返信します。

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更新日時 令和 3年 11月 1日